東海道の昔の話(108)
    山辺の御井          愛知厚顔  2004/8/4 投稿
 


 ある日、伊勢神戸藩主、本多伊予守忠貫は神戸町に住む儒学者、
磯部長恒に対し
  『歌人山辺赤人の屋敷跡があった山辺の御井(ミイ)と
   云う旧跡があると聞くが、それは我が領内か
   亀山藩領内か?。』
と質問があった。それはかって江戸城で亀山藩候から
 「万葉集に詠われている赤人の住居跡とされる
  山辺の御井の場所だが、どうも貴藩領と我が藩領
  との境目あたりらしい。はっきりしたいが…」
と雑談中で話が出たのを思い出したからである。

 万葉集には和銅五年(712)壬子夏四月、朝廷は長田王を伊勢の
斎宮に遣わしたときに、王が御井にて詠じたものが有名で

  山の辺の御井を見てがり神風の
      勢の処女ども相見つるかも

 山の辺の御井を見に来たついでに、伊勢の乙女たちに偶然出会っ
た。こんな楽しいことはなかったよ…。こんな意味だろうか。
 ついでながらこの長田王は神亀六年(729)二月、朝廷に対し反逆を
計画していると密告され、武装した兵に屋敷を取り囲まれるなか、
自から生命を絶った。これは冤罪だったともいわれる。
 長田王が山辺の御井を訪問したときは、正五位下という高官であ
った。

 本多伊予守忠貫から下問された磯部長恒は、儒学を研鑽した学者
であり、郷土の歴史はあまり詳しくない。そこで彼は石薬師宿の
学者、佐々木弘綱に助けを求めた。弘綱は明治大正昭和の時代、
和歌の偉大な歌人佐々木信綱の父であり、地元では早くから名の知
れた学者である。
 しばらくして弘綱から返事があった。それには
 「御井は〔延喜式〕では鈴鹿郡大井にありと記録さ
  ていますが、日本書紀では美也末(ミヤマ)にありと
  出てます。このミヤマが訛って大山、そして
  大井そして御井と変化したのではないかと思われます。
  これは鈴鹿郡と河曲郡の堺にありますが、昔は
  鈴鹿郡に所属したとの伝承があります。」
 そして明和の年のころ、石薬師宿の萱生由章という人が歌人の
冷泉中納言為村卿の依頼により、その年の御書き初めの硯水にと、
この水を汲んで歌を添えて奉ったところ、やがてそのお返しを書
き添えて給わったとある。

 このときの御井は村の街道のすぐ傍にあって、積石をめぐらせて
井戸の形もしっかりしており、水も非常に清らかであり旱魃の年で
も絶対に枯れることはなかったそうだ。
 もう一つの鈴鹿郡内の御井は、そこから遥かに隔たった谷間の
田圃の中にあり、昔からそこには松が植えられていた。ところがそ
の松もいつしか枯れ果て、いまは何も目印がない。そこには井戸の
形もなく、ただ水が涌いているだけである。
 こちらは完全に亀山藩領内のようであった。
 本居宣長も寛政元年(1787)六十歳のとき、名古屋へ講義に行った
帰途に御井に立ち寄っている。そして御井が二ケ所あることを知っ
ており、彼の随筆の玉勝間の中でもくわしくふれ
 『古の御井はこの二つのうちいずれならむ、定め難し』
と述べている。

 神戸藩公の話によれば、もし鈴鹿郡内すなわち亀山藩領内ならば、
先方は御井を石積みにし松や樫を植え、石碑を建立する意向がある
らしい。お互い自領内にあれば問題はないが、藩領の境界上ならば
話はややこしくなる。どちらの領内にあるのか早く決着させなけれ
ばならない。
 磯部長恒と佐々木弘綱は真剣に古文書を探り、あるいは村の古老
を尋ねて場所の特定をはかった。すると山辺の御井というのは、
他にも大和国山辺郡都祁村の都祁水分神社境内、あるいは伊勢国
久居新家町の物部神社境内、また一志郡嬉野などに存在するのが
判明した。
 『この大和国都祁村説は絶対に違うな。長田王の歌
  に、伊勢の処女を見たとある。大和で伊勢の処女
  云々は無いよ』
 『斎宮の帰途に立ち寄ったとすれば、伊勢一志郡や
  久居のほうが自然ではないだろうか…』
 『いやこちらだろう。神戸候の意向もあるし本居宣長の説
  に従い、この地にこだわる。』
 『日本書紀の美也末(ミヤマ)というのは発音の大山から
  御井(ミイ)と誤記したのだろう』
 『昔は御井の神社と呼ばれた伝承もある』
 『これはやはり延喜式にある大井神社が関係している』
そこで二人は大井神社を調べると、この宮は鈴鹿郡在とある。
この付近の古老も
 『昔から“おおいのみや”と呼ばれていました。』
という。
 そこで詳しく調査すると、いまの河曲郡の式内大井神社は、
そのむかし鈴鹿郡に組み入れられていたことが判明した。これはど
うやら神戸藩領内らしい。二人は早速そのあたりの木の根、生い茂
った夏草を刈払い、神職を呼んで清めさせた。
 そして本多伊予守の強い意向を受け、清水の傍に石碑を建立する
ことに決まった。
 
 それは慶応三年の年である。そして碑文の下書き案を磯辺長恒と
佐々木弘綱に命じられた。彼らは
 『この道の傍にある井のことは何の伝承もない。
  ただ本居宣長が〔玉勝間〕で触れているだけ、
  それもはっきりせずと断言しているのに…』
 『大和国山辺郡説は仙覚万葉抄、八雲御抄などの
  古文書でも否定されているが、このことを碑文
  に入れるかどうか…、』
〔勢陽雑記〕や〔伊勢名所拾遺集〕、〔三国地誌〕などに、この
山辺の御井のこと載せたのも入れなければ意味がない。御領主の
碑文として、あまりにみっともない文章は作れない。延喜式にある
鈴鹿郡大井神社云々のこと、これは〔神名帳孝証〕で調べても、
山辺村に御井があり大井神社があるという証拠はない。
 明和年間発行の〔式社案内記〕には、大井神社を鈴鹿郡古馬屋村
にありとし、〔式社神社宮地記〕、〔勢陽五鈴遺響〕など、どれも
この説を採用しており、これらはいずれも
 『御井は山辺にあらず』
と述べている。伊勢宮所蔵の神風徴古録、背書国誌などを調査して
も、いずれも確証がなかった。

 困りに困ってやっと出来上がったのが、建立されて現在にある
碑文である。これは藩公の文章にふわさしく、妄説を排除したため
大井神社云々の一条は載せていない。
 山辺赤人屋敷跡の御井の場所。神戸藩はそれをはっきりしないま
ま、矢継ぎ早やに湧水の周囲を整地植樹し石碑を建立し、実績を作
って既成事実としたようであった。
 亀山藩では神戸側からその事実を知らされると、
 『やはり旧跡は神戸藩領だったか…』
あまり深く追求しなかったそうである。

 そもそも、この鈴鹿市山辺町にあるのが、長田王が詠じた山辺の
御井だとしたのは、著名な国学者本居宣長の説が大きく影響してい
る。しかし近年の研究では上代で「やまべ」と呼ぶのは地形のこと
であり、それは山地、丘陵地、台地と低地との境界域を云うらしい。
そこは神の篭る山と人間の住む人里の境目であり、この「やまべ」
には神をまつり、水の涌く井戸のあるところが多い。長田王の歌
のほかに万葉集には

  三玲山の山辺まそふみふかふゆ
     かくのみからに長くと思ひき   

  山辺の五十師(イシ)の御井はおのずから
        成れる銘を晴れるわかも  

などの歌もある。このことから山辺の御井は山辺赤人とは無関係だ
と主張する学者もいて、御井が大和国山辺郡説や一志郡説が誕生し
てきたのだと思われる。 
 
 平成の現在、山辺の御井を尋ねるにはJR関西線の河曲(カワノ)駅
が便利である。駅の西に静かな田圃が広がり、その向こうに低い
雑木林の丘が見える。その麓に式内大井神社がある。この北側の
集落内にTさんの居宅があり、その庭先に御井のひとつが存在する。
 もうひとつは南の雑木林の木立の中にあり、こちらに神戸藩主の
本多伊予守忠貫が建立した石碑がある。碑文は苔蒸してはっきり読
めないが、これが磯部長恒と佐々木弘綱の二人が苦労して下書きを
作成したものである。
 こちらの井の北側に山辺赤人の屋敷跡があり、この井の水が赤人
の硯水として京都へ送られていたと、市教育委員会の案内板がある。
神戸藩主の建立した碑と湧き水民家の庭にある湧き水の井戸

参考文献  〔三重県史、資料編〕 

 
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