東海道の昔の話(125)
   鶏足山野登寺縁起    愛知厚顔  2004/11/25 投稿
 


 伊勢亀山の野登山山頂にある野登寺は千手大悲の国家を擁し、郡類を譲りたまえる霊場です。伝承ではこの山の姿は遠くインドの鶏足山に彷彿としていることから、この名が付いているそうです。しかし乱世のころに寺坊は絶えて伝承縁起書も散逸しました。
 そのためいつの時代のどの年にこの千手観音の尊像を彫り刻み、この寺が創建されたのかはっきり判りません。しかし中興の開基は誰かと尋ねれば、それは第六十代の醍醐天皇の延喜年間のことでした。

 天皇がある夜、夢の中で一人の梵僧を見たのです。
その僧の人となり顔貌もすこぶる端麗であり、また意義もまことに凡夫ではありません。天皇は不思議に思われて問いかけました。
  『貴方はどういう人ですか?、
   また何のためにここに現れたのです?』
するとその僧は
  『私はこの世を救う開士です。いま伊勢の鶏足山
   に住んでおり国家を利し民衆を安穏を祈っています。
   しかしこの国土も大いに魔がはびこり、法が弱くして
   人々も佛宝、法宝、僧宝の三宝をないがしろにして
   います。人々は我が強く終日五常を破壊し無期の谷
   より深く五戒を犯しています。だから謀反人が神社を
   焼き討ちしたり、あるときは盗賊が仏の堂宇を焚塵
   する有様です。それで魑魅の輩もそれを知り、魍魎たち
   の力も増して疾疫の禍をもたらしました。
    貴方は天帝を祖として万民に父と敬われる立場です。
   どうしてこの惨状を憐れみ、禍を取り除こうとなさ
   れないのですか?。
    貴方が霊山の付嘱のとおり御自身も三宝に帰依し、
   万民を慈しまれることです。そうすればやがて邪芽
   は根を絶ち、皇統も強固となり国土も康泰と福寿も
   延長、子孫も昌栄するでしょう。』
と云うと、静かに消えて立ち去っていったのです。

 醍醐天皇は恍惚として御夢も醒めました。
  「さても不思議な夢を見たものだ。」
と、大急ぎで近習側近を招集されました。そして
  『昨夜見た霊夢のお告げは不思議なものであった。』
と、しかじかと勅語されたのです。並居る公卿大臣もことごとく
  『これは実に不思議なお告げです。これは国土安穏の
   柱礎かも知れません。一刻も早く伊勢の鶏足山に
   勅使を立て見分されるべきです。』
一同は進言しました。そこで早速に使を遣わし調べさせたのでした。
 勅使が鶏足山に登ってみれば、清流はさらさらとして一行の前に流れ、峻岳はごつごつと後ろに控える。古い岩には苔が蒸し蔦や蔓が老樹を這い上がっています。
幾世代も幾年古ともなくいまに続くこの不思議な絶境…。吹く風は花びらを舞わせ妙香はあたりに薫る。猿は崖によじ登って叫び、どこからともなく読経の声が聞こえます。
 渓流の漫々たるは弘誓のふかきに准へ、とうとうと聞こえる滝の音は煩悩の穢れをすすぐ心地がします。
 勅使もここにおいてすっかり世俗を忘れ、塵心を除いて悠然として佇んでいます。

すると何処からともなく一人の老僧が出てきて
  『天皇の勅命により貴方が遠方から来られたことを
   感謝します。ここからは私が御案内しましょう。』
と小堂の上に登って戸を開き帷をあけ、千手観音の尊像を拝して
  『この尊像は、そのむかし天照大神が御手ずから
   彫刻し給える尊像で桑の霊木です。』
  『賢くも社に寄付して香花と燈火と茶菓を沿え、麺餅を
   供えて人が給仕すること十年あまりになりました。
   その後は二番いの鶏が人に代わって給仕せしめたの  
   です。この鶏はいまに至るまで野登山の山頂や堂宇の
   あたりの樹梢に住んでいて、増えることも減ることも
   ありません。まことに世に希有なる霊地です。』

  『貴方がたは良く敬い信心されるがよろしかろう。
   この尊像は過去久遠劫よりこのかた未来際にいた
   るまで、上は菩提を求め下は衆生の願いを聞き届
   けられ、和光同塵、般若与楽を与え給う。
   あるいは福を祈り寿を祈り雨を祈られます。
    また婦女子は良縁を祈り、青年はよき伴侶を祈
   り子を祈り孫を祈ります。皆々がたが至誠を尽く
   して帰依され祈るならば、その真心は必ずや通じ
   て霊応霊感が得られるでしょう。
    現世の楽しみを祈るためにも、このような感応
   があります。まして死んだ後の世でも、善処を求
   め仏の救いを願うことができるのです。。
   観音菩薩の応化の不思議は数えられないほどです。
    仏の教えである略普門品に説かれている三十三
   応身のように、日ごろ諸々の山々に足跡を残され
   る中でも、この鶏足の霊像は天照大神が御自ら
   彫刻され給う故に最も優れているのです。』

 老僧はこう云い終わると忽然として姿が見えなくなりました。
勅使は大いに驚き賛嘆して
  『さてこそこれが大悲大慈の千手観音が仮に老僧
   の姿として現れ、我れに諭されたのであろう。
   大変ありがたいことだ。』
と、尊像を拝礼し立ち上がって帳をおろし戸を閉め、山を下りて無事に都に帰りました。
 
勅使は直ちに宮中に参内しました。
そして鶏足山での見聞体験を醍醐天皇に奏上しました。天皇は
  『やはりあの夢は正夢であったか…』
と深く感じられ、かたじけなくも斎戒淋浴をされたまい、はるかに伊勢の鶏足山の峰の方を合掌礼拝ましましたのです。
そして
  『かの山に堂宇を建立せよ。』
と仰せになり、かくて醍醐天皇の勅願による本格的な寺院の建立が決定しました。

 延喜七年(907)のことです。
 建材は遠くや近くからも高価な珍木奇木をえらんで運ばれ、荘厳な山の中に槌音が響きます。やがて人々の願いがかない三年後の延喜十年(910)庚午の年に完成しました。
 その伽藍のありさまは画棟彫刻、あらゆる寺院建築の美を尽くし、彩の極みを厳かにしていました。玉を畳む層塔は常に朝日に映じ、金を嵌めた霊台は夕べの月を得ているようでした。
 境内はいつもさわやかの風が吟じ、参道の霊木は段々として霜に響きます。
これはまさに祇園精舎の再来と人々は欣喜し噂をしたものです。
 ときの亀山城主は永久寺領として三百貫を寄進されました。
このとき醍醐天皇は高僧、仙朝上人に詔勅をこうむり住持に任命されたのです。
 この開堂供養は延喜十年四月七日だったことから、いまに至るまで四月七日に野登寺では法会を営なまれ、近在遠村の人々が参詣されるのです。

 仙朝上人が入寂されたのは仙ケ岳であり、その遺体は仙ノ石の下に葬られたと伝承されています。仙ケ岳の山名は仙朝上人ゆかりの名前なのです。
 その後二十七代の法印実盛のとき、天正の戦国時代に織田信長の伊勢征伐や、羽柴秀吉の滝川一益攻めに際し、ほとんどの堂宇が焼け落ちました。しかしその後の住職と人々の努力とで寺宇は立派に再建されました。第二次大戦中には梵鐘を軍に強制寄付を命じられたとき、人々は気転を利かせて梵鐘は失ったと報告し難を逃れたそうです。
 その後、たび重なる台風の襲来で参道の大木、堂宇に多くの被害をもたらしました。しかしいまは堂宇も立派に修築されました。

 自然の猛威による山容の変化は人の知恵では計り知れませんが、お金儲けのためにこの聖域を破壊することは絶対に許してはなりません。野登寺がまします鶏足山、そこは伊勢に住む人々にとって母なる山であり心の山なのです。

復元された本堂と植林が進む周囲 往時をしのばせる参道

参考文献       〔鶏足山野登寺縁起〕

 
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