東海道の昔の話(135)
   織田信長の伊勢侵攻2 愛知厚顔  2005/2/16 投稿
 


永禄十一年(1568)秋九月。織田信長は一転して近江の観音寺城主、
佐々木六角義賢を攻撃した。この六角は全盛期には鈴鹿山系の八風峠や
杉峠、根平峠を越えて伊勢に侵攻している。弘治三年には菰野の千種氏と
連合して柿城(桑名市)を攻めたりしている。
 けれど六角義賢は織田と決戦することなく城を明け渡してしまった。
主な原因は部下の離反である。かくして近江の野を進撃した織田信長、
九月二十七日に足利義昭を征夷大将軍に擁立し、念願の京都に入ったので
ある。
 そして織田軍の一員となった亀山の関一党、さっそく信長の命で長法寺
城主の片岡六左衛門を鈴鹿郡国府村(鈴鹿市)の付近の戦いで破った。
その勢いで進撃し白子に至って織田本軍と合流した。 

 もはや天下は織田信長を中心に回転しはじめていた。
彼の大軍は伊勢路を怒涛の如く南下してくる。信長は北勢の武将や関一党を
幕下に加え、つぎの目標を安濃に君臨する長野工藤一族の攻略に的をあてた。
彼らは長野工藤の一方の旗頭である安濃城に殺到した。
この城は名将、細野藤敦が守っていた。彼は
 『信長の和睦など信用できない。武士の意地をかけて
  徹底抗戦あるのみだ!』
と主張して頑張っていた。
 この当時の長野工藤氏は安濃郡長野(美里村)の城を根拠し、関一族や
北畠氏を並ぶ勢力を誇っていた。長野工藤一族は雲林院氏(芸濃町)、
草生氏(安濃町)、家所氏(美里村)、細野(美里村)、分部氏(津市)、
乙部氏(津市)、川北氏(津市)などに城をかまえていた。ところが強硬派の
細野藤敦に対し分部と川北は
 『我らが生きる道は織田との和睦しかない。』
と和睦を強硬に主張する始末。一族の結束はすでに分裂の様相であった。

 間もなく織田軍の先鋒は細野藤敦が守る安濃城に殺到する。
けれど城の守りは堅くびくともしない。一ヶ月ちかくも睨み合いが続いた。
先鋒軍大将の滝川一益はしびれを切らし、すでに和睦降伏している川北と
分部に
 『細野藤敦に和睦の説得をしてみよ。』
と命令した。しかし徹底抗戦と城を枕に討ち死を覚悟している細野軍には
通じない。結局、和睦策は失敗に終わる。つぎに滝川がとったのはデマを
飛ばす謀略作戦であった。
 『細野は安濃本家(美里村)に対して反逆心あり。』
というもの。この心理作戦にひっかかり、安濃本家の長野城から問責されて
しまう。結局は安濃城も織田軍に
 『織田方に味方します。』
と和睦を申し出たのである。永禄十一年十一月十一日であった。
この和睦で雲林院、草生、など長野工藤一族はすべて織田軍に組み込まれた。
 また長野工藤には織田信長の弟、信包が養子に入って河芸郡の上野城に
居を構え、家臣に和睦推進派の分部氏が仕えた。しかし翌年の永禄十二年
一月、抗戦派の細野藤敦は織田信包と武力対立する。結局、滝川一益の子供
を細野の養子に出して再和解をした。その後、天正八年(1580)織田信包は
突如として細野藤敦と雲林院氏を襲った。細野は自ら安濃城に火を放って
行方をくらます。また雲林院は城から追放の憂き目に逢う。
しかも長野工藤本家も天正四年(1576)十一月に殺され滅び去っている。


 安濃一族を手中にしたあと、織田軍は伊勢で残る抵抗勢力の北畠氏攻略
に向かう。
 北畠家は伊勢では名門中の名門、もとは朝廷の側近である。
第六十二代村上天皇の皇子、具平親王から八代目の雅家のとき北畠の姓を
名乗ったとされる。いわゆる村上源氏である。南北朝時代には三代目の
北畠親房が後醍醐天皇に仕え活躍した。親房は建武二年(1335)に伊勢国司
として伊勢に赴任し、田丸城(渡会郡玉城町)を本拠に各地に城を構えた。
のち一志郡美杉村の霧山城に本拠を移し、伊勢の戦国大名として君臨して
いた。信長の侵攻当時は七代目の北畠具教が国司であった。
北畠軍は霧山城、田丸城、大河内城(松阪市)、藤方(津市)、木造城(久居市)
などに用意万端の戦備を整え、織田軍を迎え討つ決意を固めていた。
とくに木造城には国司の弟の木造具政が兵一千名を擁して立てこもった。
ところがこの兄弟は日ごろから仲が悪かった。この兄弟の間の亀裂を
知った滝川一益は密かに弟の具政のもとに密使を派遣し
 『この際は織田方に味方されよ。後々まで責任もって
  北畠家の面倒はみます。』
と説得した。この熱心な説得に具政はとうとう兄に反逆を決意する。
さっそく木造具政は傘下の兵を自分の城に集めてしまった。それを知って
驚いたのが兄の北畠具教である。かれは霧山城から防衛の本拠を大河内城
に移していたが、
 『木造城が反逆した。弟はもはや敵である。全員で決戦に
  備えよ!』
と決戦体制をいよいよ固めた。
大河内城跡

 合戦の口火を切ったのは北畠軍からである。彼らはかっての味方の木造城に攻撃を開始する。皮肉にも木造城は織田軍に対し最強の防衛線だったせいでもあり、兵糧や武器も充分で城の守りは強固である。この一族間の骨肉の戦は憎悪をむき出し、まことに悲惨な戦となった。
 この戦の経緯を岐阜でみていた織田信長、永禄十二年の八月二十日に
なると五万の兵をともない北畠一族の攻略にむかう。彼の幕下には
滝川一益、柴田勝家、氏家ト全、木下藤吉郎などがいる。彼らは八月二十三日に安濃城を経て木造城に到着した。そして小森上野城(久居市)や大宮入道が守る阿坂城を攻め落とした。このとき攻め手の木下藤吉郎が生涯にただ一度の戦疵を負っている。
 追い詰められた伊勢国司の北畠具教は総力挙げて兵を展開、本拠を美杉の
霧山城から飯南郡大河内城(松坂市)に移し、城郭の補修と兵力の増強を行
って織田軍を迎え討った。彼らは八月から篭城して激しく抵抗する。
信長軍は城の北東にある桂瀬山を本陣に構え、大河内城を五万の兵力で二重
三重に取り囲んだ。鉄砲が使用されたのも初めてであった。
これに対し北畠軍は八千ほどの兵力だが、その士気は高く魔虫谷や竜蔵庵口
などの合戦では、織田方の有力な武将も討たれる有様であった。
これをみた織田信長は武力制圧をあきらめ、
 『我が子の三男、信雄を養子に出すので和睦してほしい。』
と提案を持ちかけた。北畠側は連日の激戦で
兵力消耗も激しい。とうとう
 『和睦に応じる。戦をやめましょう。』
申し入れに応じたのだった。
 
 かくして伊勢国の第八代国司、北畠具教は養子の信意に座を譲って隠居
した。だが翌年(1569)、信長の臣下になっていた旧臣により攻められ、
三瀬谷の隠居所で自刃した。具教は上泉伊勢守秀綱から免許皆伝を受け、
また塚原ト伝から一の太刀の奥義を伝授された剣豪でもあった。
 この大河内城の合戦で亀山の関家一族の働きが抜群だった。
そこで信長はその功を褒め
 『そちに三重郡を加賜して与える。』
これにより関一党は鈴鹿郡、阿芸郡、河曲郡、三重郡、朝明郡など五郡を
領することになり、合計の知行は四万貫となった。しかしここはまだ群小
武将が割拠しており、全部を自己のものとすることにはならない。
関一党のうち鹿伏兎家と国府家の両家でそれぞれ四千貫、峰家で三千貫、
神戸家で一万貫、そして亀山宗家で一万五千貫ぐらいだろうと云われる。
これは十貫につき玄米五十石の割合で計算したものである。

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参考文献  「勢陽雑記」 「伊勢軍記」 「信長公記」
      「九九五集」「北畠物語」「鈴鹿郡郷土誌」
      「関家由来」    

 
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