東海道の昔の話(98)
 谷文晁の日本名山図譜2 愛知厚顔  2004/7/12 投稿
 


 桑名城下でもう一泊した谷文晁と弟子の二人、翌朝夜明けと共に出発した。
 東海道を朝日、四日市と歩いてゆくと、左には蜃気楼で有名な那古の浦、右手はるかに山々が見えてくる。
 『あれが名高い菰野三山だな、一番右が国見山、真ん中が
  御在所、そして尖がっているのが冠ケ岳(鎌ケ岳)だろう。
  山としては魅力があるが、そうかと言ってどれもこれも
  絵にするわけにはいくまい。なにしろ錦城から選りす
  ぐった名山を描けとの注文だからなあ。残念だが鈴鹿
  の山々はこのつぎの機会に描こうと思う。』
杖突坂を登って石薬師の如来に参拝し、庄野宿から亀山城に到着したのは午後三時過ぎであった。

 亀山城に上り、取り次ぎの侍に松平楽翁(定信)の紹介状を渡すと、入れ違いに御用人、高木衛守がすっとんできた。
 『殿がぜひお会したいとの仰せである。』
一介の絵描きの身分なので、山の絵を描くだけの便宜を計らって貰うつもりが、藩主みずから会うという。どうやら大げさになりそうである。やはり前老中の紹介状は重みがある。
 案内された部屋で待っていると、城主が入ってきた。
 『石川主殿頭総安である。遠慮はいらぬ。』
通常では身分の高い城主に絵描きなどが直接話しはできない。
しかしここでも例外の処遇である。
 『谷文晁でございます。初めてお目にかかります。
  どうぞよろしくお御見知り置きを、お願い申し上げます。』
総安は文政三年に石川支族の出身から宗家の家督を引き継いていた。
彼は儒学と和漢の歴史に精通し、非常に聡明な主君との評判である。
 『あの高名な谷文晁先生がお手前か、これは藩にとっても
  名誉なこと、ぜひごゆるりと滞在して頂きたい。』 
 『有難うございます。今回の旅はお上の御用ではなく、
  まったくの私用でございます。日本の名山を絵にし
  ようと、志を立て全国を旅している最中です。
  伊勢路では多度山を描きました。また昨日は楽翁様
  から御藩領に聳える百杖岳を描けと推薦されました。』

総安は御用人の意見も聞きながら言葉をかけた。
 『楽翁殿は御息災ですか、何よりです。
  楽翁殿は勘違いされておられる。百丈岳とはこの城の
  南の方角に聳えている錫杖ケ岳のことらしい。むかし
  修験者が修行をした険しい山ということで、修験者の
  持つ錫杖から山の名前が付いたとか、あるいは山頂の
  形が雀の頭に似ているので雀頭ケ岳とか呼ばれている。
  百丈岳とは呼ばれたことはないと思う。今は誰もが
  錫丈ケ岳と呼んでいる。
   ほら、あの窓からご覧なさい。よく見える。』  
指指す窓の向こうに、天を突いて鋭く急峻な山容が見えた。
 『ほほう、あれが錫丈ですか。これは相当に険阻な形を
  していますね。さっそく明日は近くの村までいって
  写生をしてみたいものです。』
総安と用人は言葉をついで
 『実を云うと、わが藩領内の山では市ノ瀬から見える
  筆捨山を画にしてほしいと思っている。むかし狩野派
  の古法眼元信が東へ旅行したとき、この山の風景を描
  こうとしたが、刻々と変化する山の美しさに負け、
  とうとう絵筆を投げたという。この故事から山の名前
  がある。その話が一般に伝わっているので、ときどき
  絵心のある旅人が描いているが、貴方のような著名な
  方はまだ画にしていない。
   このたびは良い機会だからだから、ぜひこの山の方
  も絵にしてもらえないだろうか…。』

それを聞いた谷文晁は
 『恐れながら、あの有名な狩野法眼元信が自分の実力
  では描くのは無理だといったのでしたなら、私には
  とうてい描けません。私などとうてい法眼の足元に
  も及びません。それに関宿から大和街道に入るつも
  りなので、筆捨山は通りませんから…。』
 『わが国第一の画描きが謙遜されるとは…まあよい。
  筆捨山は街道筋だからいつでも描ける。今回は素晴ら
  しい錫杖ケ岳の画をものにしてほしい。
   麓の大庄屋にも便宜をはかるよう手配りをし
  よう。そして滞在中の宿も藩で用意しよう。』
ここでも城主の暖かい配慮に感謝した。
 『それで錫杖ケ岳のつぎは何を描かれる?』
 『関から大和街道を伊賀へ抜け出るつもりです。
  伊賀で適当な山をひとつ…と思っております。』
総安は用人と相談していたが
 『伊賀にも沢山の名山があるが、尼ケ岳という山が
  すばらしいと聞いている。地元では伊賀富士と呼ば
  れるほど端麗な姿らしい。紹介状を書くから伊賀上野
  の藤堂家に持参すると便宜を図ってくれるだろう。』
 ここでも藩主自ら谷文晁へ肩入れをしてくれた。やはり前老中との懇意な間柄が物を言ったとみえる。

 あくる日も晴天である。夜明けとともに文晁主従は出発した。
野村、能古茶屋と歩くうち、行く手に聳える錫杖ケ岳の怪異な山容がだんだん大きくせり上がる。
 『右手の鈴鹿山の方が高さはあるようだが、人を
  圧迫する迫力はこの錫杖の方だろうな…』
うーん、太綱寺縄手の松並木からも、険しい岩の山稜に生えた松が彩りを添えている。山頂の雀の頭から左にかけては、鋭いギザギザの尾根が延びている。これが小雀の頭と呼ばれる尾根だろう。
 関宿の往還に入ると、御馳走場で羽織袴裃姿の大庄屋が谷主従を待っていた。これから加太まで案内するという。しかし気楽に絵を書きたいので自由にさせてほしい、そう言って丁重に引き取ってもらった。
 この宿場は参宮街道と東海道、それに大和街道の別れ道となっている。主従は宿引きや宿場女の賑わいを振り切り、地蔵院の参拝もそこそこに西追分に着いた。

 「本当に錫杖の頭部に似ているなあ…」
山をつくずく感心しながら眺める。この追分から東海道と分かれて伊賀大和街道に入ると、それまで晴れていた空が急に曇り、パラパラと雨粒が落ちてきた。この地方の秋の天候は一日のうちに急変するので知られている。
 「少し急ごう」
 むかし城があったという山が右に近ずくころ、左の加太川のむこうの前山に隠れていた錫杖ケ岳が急に現れた。
 「ほおッ…」
驚いて眺めていると、それまで頂を覆っていた雨雲もとれ、山の全容が望まれる。
 『よしここから描こう』
谷文晁は弟子の背から絵の用具を下ろし、山を写しだした。
 よくみると頂からごつごつとした尾根が右の方へ伸びているが、その鞍部にむけてこちらの手前から細い山道が上っている。
 『あの道はどこに行く道なのか?』
文晁は畑を耕していた農民に聞いてみると
 『あれは加太と河内の北畑を結ぶ山道です。あの峠が柚ノ木峠です。』 
と教えてくれた。

 それにしても、この山腹の急崖をどう表現したらよいのだろう
か…。
 昔の人が
 〔むこうにあたって、錫杖嶽、峨々と聳えて風色斜めならず、
  吾妻の通行、参宮の貴賎、まずここに憩う、時をうつすの
  勝地なり〕
 錫杖ケ岳は古くから雨乞いの霊山でもあった。
宝暦五年(1755)ごろには、山の東側にある津藩領の雲林院村の五ケ村では、幟を立てて雨乞い登山をしたと記録にある。
 その後もたびたび旱魃の年には雨乞いが行われたという。
雀頭雨乞いは大小さまざまな幟を押したて、急な山腹を登る勇壮な行事であった。

 まさに錫杖ケ岳は街道筋にある名山のひとつであった。
 やがて陽が翳ったと思ったら、再び山頂に黒い雲がかかり驟雨が来る気配である。文晁は絵筆をしまうと雨を避けるため、農家の軒先まで走った。
 『これでよい。しっかり山を眼の底に捉えたから、
  ここからあとは宿に着いてから仕上げよう。』
主従は雨やどりをしながらつぶやいていた。
 あとで刊行された錫杖ケ岳の図は百丈岳となっており、所在地も勢州員弁郡とある。これはのちの編纂の際に間違えたのだろうといわれている。

 このあと文晁は伊賀に入り、尼ケ岳と高見山を描いている。
 この旅での名山の絵はすべて岩手の医師、川村錦城に送られ集められた。文化元年(1804)、谷文晁は川村邸に収蔵されていた山の絵を出版するために縮小した。それを錦城が編纂して私家版の〔名山図譜〕三巻、八十七座八十八図が収められ上梓された。
これは巷間から非常に歓迎され、文化二年、三年、四年と重版を重ねた。
 その後の重版出版のとき新たに岩手山などを加え、文化九年(1812)には江戸の須原屋茂兵衛をはじめ、京都、大阪の三都の書店がきそって版元となり刊行された。それがいまに伝わる名作〔日本名山図譜〕である。谷文晁と川村錦城がどのような基準で山を撰んだのか判らないが、南アルプスの北岳や北アルプスの穂高岳などは、明治になって山の存在がやっと世間に知られたこともあり、これに収録されていない。しかし富士はもちろん白山、御岳、立山
など他の有名な山は含まれている。
 この近辺では多度山、錫杖ケ岳、尼ケ岳、高見山のほか伊吹山、朝熊ケ岳、鳳来寺山、比叡山、比良山、三上山などが入っている。

 谷文晁は天保十一年(1840)七十八才で没した。 

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谷文晁〔日本名山図会〕から〔錫杖ケ岳〕

参考文献 
谷文晁〔日本名山図譜〕
住谷雄幸〔江戸百名山図譜〕
     〔東海道名所図会〕 

 
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