アフリカにつなぐ虹の架け橋
生涯をアフリカにささげる
市橋隆雄・さら 家族のおはなし

この作品は主に若い世代(小学校高学年以上)の皆さんへのメッセージとして作成され小冊子として各種イベントで無料配布の予定です。          2004年1月2日

   製作:「市橋隆雄さんを支える会」
イラスト:奥田裕子 他   

皆さんは地球儀を見たことありますね。
地球儀では地図ではわからなかったいろんなことに気付きますよ。
もし近くにあったら手にとって見てみましょう。その表面は今私たちが立ったり歩いたりしている地面です。実際はその上に空気の層がありますがそれはほんとうに薄くって1ミリもありません。あの世界一高いエベレスト山だってその地球儀では紙1枚の厚さにしかなりません。
地球ってほんとうに広く大きいんです。でも今は飛行機に1日のれば地球の裏側の国々に行くことができます。今では日本を出て世界の国々でくらしている日本人は80万人もいるそうです。これは亀山市の人口の20倍にもなります。今日は皆さんと同じ亀山の学校を出て外国に住んでいるひとりである市橋隆雄さんのことをお話します。それでは約45年前に戻るタイムマシンスタート・・・・・・
ここは亀山市の図書館の近く、あたご山です。小学生の男の子たちが急坂ですべり台遊びをしています。
隆雄くんは子ども達の大将です。「おーい、バスが来るぞ!攻撃だ−ッ」男の子達はバスの窓に向かて土を投げつけました。「また、あの悪がきだな」運転手さんは怒るのもあきらめてそのままバスは去っていきました。

だれかが言いました。
「あそこのカキがうまそうだぞ」今度はよその家のカキの木にのぼってカキ泥棒です。
木の上からカキをとって下に投げるのは隆雄くん、受け取るのはその子分たちです。「こら−っ、おまえたち!」おじいさんのどなり声がひびきました。ポケットにカキをつめこんでいちもくさんに逃げました。

冬の田んぼにはお米をとった後のイネわらが山の形にくみ上げてほされていました。
「すずみわたりをしようぜ」男の子たちはそのイネわらの山から山へ飛び移って遊びました。地面に足がついたら負けです。みるみるうちにわらの山はくずれてやがて倒れてしまいました。苦労して作ったお百姓さんたちはきっとカンカンに怒ったことでしょう。
でもこの時代にはこんな悪いことをする子どもたちがいるのがあたりまえで大人たちもむかし子どものときに同じ事をしてきたので許してくれました。
時はたち隆雄さんたちは中学生になりやがて高校に行くもの、卒業して都会に働きにいくものと分かれました。お互いのようすを知ることもできなくなりそれぞれが自分のまわりのあたらしい友人とつきあうようになりました。ちょうどそのころ日本は高度成長期といって家庭にカラーテレビがつき自動車まで買えるようになってきました。仕事がどんどん増えて、お金をかせぐのにみんなが朝早くから夜おそくまで必死で働きました。

たくさんの大学では若い学生と昔からいる先生と考え方があわず対立し授業もできない日々が続きました。学生たちは教室で人生や未来そして死について語り明かしました。でもだれにも「自分はなぜこの世に生きているんだろう」という答えはわかりませんでした。
大学を出た隆雄さんは、人生に悩みいろんなアルバイトで暮らしを立てていました。道路工事や大きな船の底のさび落とし、ビルの窓ふきなどなんでもやりました。
そんなときに「青年海外協力隊」といって日本の政府が開発途上の国のおてつだいに若者を募集していたのでアフリカの北にあるエチオピアに農業の指導に行くことにしました。
そこでは戦争が起こったり、国の中でお互いが殺しあっていました。

平和で豊かな日本とあまりにも違うくらし、食べるものもなくあすは生きていないかもしれない、それでも人々は明るく笑い親切で思いやりがある。これはなぜだろう。若い日の隆雄さんにとってこの体験はその後の人生を決めることになりました。その後エチオピアでは戦争がはげしくなって隆雄さんは日本に戻りましたが再びアフリカに行く機会が巡ってきました。

こんどはケニヤのナイロビにあるスワヒリ語の学校に行くことにしました。
ここでちょうど一緒になった仲間にその後、隆雄さんの奥さんになったさらさんがいました。「さら」って言う名前はちょっと珍しいですがキリスト教の聖書に出てくる女の人の名前です。さらさんはクリスチャンの家庭に育って、いつかはアフリカのスラムで働きたいという夢を持っており大学を終わってすぐにケニヤのことばであるスワヒリ語を学ぶ学校に来たのです。スラムとは特に貧乏な人たちばかりが集まった地域のことです。そこは汚く病気になって働けない人たちであふれていました。まだこれからの人生をどう生きようかわからなかった隆雄さんにとって希望にみちた、さらさんのひとみは、ひときわまぶしく輝いて見えました。

 

隆雄さんたちはその学校でアフリカの言葉やその文化などアフリカの人たちと一緒に生きるのに必要なことを学びました。さらさんはナイロビのスラムで働き隆雄さんもそこを手伝ったりしました。その後帰国した隆雄さんは東京にケニヤ大使館ができたのでそこで通訳や翻訳の仕事をすることになりました。


隆雄さんは教会で洗礼を受けてキリスト教徒となり、さらさんと隆雄さんは結婚をしました。
さらさん23歳隆雄さん31歳のときでした。
隆雄さんはキリスト教徒としてどう生きたらよいかということで悩みそのときひとりの人物に出会いました。その人が
「あなたは何をして生きるかと、さがしているけれど、それではいつまでも答えはでない。何をして生きるかよりも自分は誰のために生かされているのかを考えなさい。それがわかればあなたは何をすればよいかがわかる」
と言われたのです。

隆雄さんたちのアフリカでの体験、決してそれは偶然じゃなく意味があったのだと気付きました。アフリカの人たちに出会ったこと。しかしその人たちはいま非常に貧しく助けが必要だしこれから一緒に生きようと決心しました。でもそれはすぐにはできることではありませんでした。ほんとうにアフリカの人たちと一緒に生きる、それはお金持ちが貧しい人にものをほどこす・・・そんな考えではできない大変なことなのです。
それで隆雄さんはキリスト教の牧師になる決心をしました。4年間牧師の勉強をし病気で身体が動かない子どもたちや心の病で社会で生活できない人たち、重い病気で死を待つだけの人たちと生活を共にしました。それも牧師になる大切な訓練だったんです。
それで1988年40歳のとき牧師となって家族と共にケニヤにむかいました。始めてケニヤに行ってから10年の歳月が経っていました。でもその10年間で学んだことや若い日々のアルバイトの経験がむだなく役に立つ時がきたのです。
皆さんのなかにも今悩んでいるひとがいるかもしれません。自分はなぜ学校なんか通っているんだろう。
何でこんなさびしい、つらい日々をおくっているんだろう。自分なんかいらない人間だ、消えてしまいたい。
そんなあなたに隆雄さんは言います。
人生には自分の目には、むだでむなしいと思えることがあるかもしれません。でもそれはいつか実を結びあとで役に立ちます。ただそれは今のあなたには見えていないだけなのです。

ナイロビでさらさんと隆雄さんは幼稚園を始めました。そこは日曜には教会となって貧しい人もお金持ちも一人の人間として祈りに集まります。幼稚園はお金持ちの子どもたちがほとんどですがその子どもたちは将来は国の指導者になる人たちですから幼いうちに助け合いの心を持たせるのも大切なのです。
ケニヤでの活動も15年となって今では隆雄さんたちを中心にしてアフリカの人たちが多く集まりお金を出し合いスラムに幼稚園をつくりました。スラムの子どもたちが盗みをしたりしないよう良いことと悪いことを小さいうちに教えています。
また字も読み書きできないと、いい仕事がみつかりません。そこで子どもたちに勉強のおもしろさをみつけさせ、社会の中で生きていけるよう学ぶ場所をつくりました。まだまだ先は長いのですが隆雄さんたちの子どもたちもそのお手伝いをしており将来は同じ道を歩んでくれそうです。
隆雄さんたちには大学生になる女の子と高校生と中学生の男の子の3人の子どもがいます。
でもアフリカの人と共に生きようということでアフリカ人の2人の孤児を家族にむかえました。
さらさんたちはアフリカに生涯を捧げたいという思いがあって親がない子どもを自分たちの子にしたいと願い、たくさんは無理だけど2人の子どもの将来に対して責任を持ちたいという思いで家族にしました。
さらさんはこう言っています。
同じ両親から生まれても皆違うのだから肌の色が違うとか生まれ方が違うとかは違いの内のひとつでしかないと思うんです。だから子どもたちにも3人は私のお腹から生まれたし2人はママじゃない人のお腹から生まれたけど皆パパとママの子どもなの。それは生まれ方が違うだけでみんな私たちの子どもなのよ。
現在のアフリカはあまりにも多くの問題をかかえています。
部族の対立での争い、食糧不足、貧富の極端な差、学校にいけないことによる読み書きのできない人たち。さらにはエイズのまんえんによりどんどん増える病死者。
それでもアフリカには私たちがものの豊かさがゆえに忘れかけた人として生きる知恵、助け合う心があるそうです。
そこで日本人は日本で身につけてきた知恵を出しアフリカの人々と共に働くことでいつの日にかよりよいアフリカをつくり上げる夢をかなえたい。隆雄さんたち家族はそう思っています。
そしてできる範囲でいいから自分たちのことを知ってもらいたい。できればいつかあなたたちもアフリカに来て自分達と一緒にアフリカと日本の架け橋になってほしいと願っています。

Amaniとはスワヒリ語で平和の意味
赤は赤道、にじは希望のシンボル

「市橋隆雄さんを支える会」は亀山市民と亀山中学同窓生を中心に2000年11月に発足しました。現在では広く亀山市以外の市民の皆さまや世代を超えて約150名の会員を有し会費(年間2,000円)と募金やバザーをつうじてケニヤの市橋さんに全額を支援金として送っています。
また国際協力の講演会等を開いています。
市橋さんはキリスト教牧師ですが私たちは宗教活動とは全く関係ありません。

市橋隆雄さんを支える会
代表 片岡国輝  笹山ふみ子

Email   amani@helen.ocn.ne.jp
ホームページ
 http://kirakame.sakura.ne.jp/amaniafrica/sasae/
支援金受付等 郵便振替口座番号
  00800−0−41891
口座名称  市橋隆雄さんを支える会

この冊子を印刷されたいときは下のサイトにあります。PDF版でA4の用紙に印刷し
袋とじできます。自由に配布できます。

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