歴史に息づく街道   仙の石 50代会社員 2003/10/13投稿
 

亀山・関は東海道で発展してきた町である。古くから東と西をつなぐ交通の要所としてその役を担ってきた。
これには地理的な要因があった。延々と50kmに渡って南北に連なる鈴鹿山脈は東西を遮断する天然の城壁であった。
北に迂回するにも冬は豪雪の関が原、南に逃れるにも布引の山々が続き険しくはあってもまだましな鈴鹿峠が利用されたのは当然だろう。
この峠は西(滋賀県側)にゆるく東に急峻で鈴鹿川の急流もあり旅人にとって箱根と並ぶ難所で坂下宿、関宿、亀山宿がわずか10数キロに満たない間に置かれていた。
関町の街道
関町では関宿の町並みを復活しようと20年近く前から改装が進み今では電柱の撤去、当時の住まいの保存により狭い道を逆に利用した個性ある町並みが完成し休日ともなれば全国から訪れる観光客が後を絶たない。

「気付きの種をまこう」
亀山では旧東海道の西端の京口門から東の端である露心庵までの約3kmの家々に往時を偲ばす屋号の木札が延べ約400枚掲げられている。
この屋号看板の設置は行政の事業でなく「宿場の賑わい復活一座」と称する市民有志のボランティアグループにより行われた。
2001年1月21日、21世紀の始まりとして市民行政の協働ネットワーク「きらめき亀山21」が結成された。市民と行政がそれぞれの持ち味を活かしてまちづくりをしていこうといくつかのグループが誕生した。
このグループのひとつである「宿場の賑わい復活一座」(当時は「町並み保存分科会」)は「気付きの種をまこう」というスローガンを決めた。
亀山は、城下町・宿場町であったがその姿が近年急速に変わりつつある。
旧街道沿いの建物や路地が消え、いつのまにか駐車場や規格化された建築に変わってしまった。
旧亀山宿が何の個性もない、ただ人が住んでいるだけの場所になってしまう。
日本でたった53ヶ所しかない東海道の宿場のひとつである亀山の姿がこれではあまりにもさびしすぎる。
旧街道沿線の方々に気付いてもらいたい。家の前の道は東海道だと。
ここを通った歴史上の人物は数限りない。歴代の将軍も行き来したし赤穂浪士も新撰組も官軍も歩いた。
すごい歴史ある道、東海道で生活しているのだ。
関や坂下の真似でなく亀山の独自色も出したい。
そのためにやれることを考えた。
1.当時の地名をつけた道標を設置
2.当時の屋号を軒先に吊るす
3.東海道の案内看板や道標 史跡など案内板を設置
4.古い家や風情ある家のマップづくり
5.沿線住民のお宅訪問

木札の見本で趣旨を説明

これらの案を出した。
このうち道標等は行政の領域であり市民サイドとしては昔の屋号を家々に掲げることになった。
江戸時代の屋号なんて一部を除きもはや人々の記憶から消えていた。しかし貴重な資料が亀山市歴史博物館に保存されていた。
江戸時代末の文久3年(1863年)亀山宿に当時の将軍が宿した。何千人という多数の付き人の利用の便をはかるのに亀山宿の状況が詳細に調査されそれを記した『宿内軒別書上帳(しゅくないのきべつかきあげちょう)』(伊勢国鈴鹿郡東海道亀山宿・亀山市歴史博物館蔵)が現存した。
これには当時の家々の屋号や住み人の名が空家も含め絵図上に克明に記載されていた。
これを現在の住宅地図の上に展開し今の家々の旧屋号を同定する作業が同じ「宿場の賑わい復活一座」のメンバーである教育委員会の学芸員と関係者によりできるかぎり史実に正確に行われた。

民間・行政ひとつになって
歴史の専門家である学芸員、木工の達人、建築士、道路行政のプロ、機械設備の技術者、市民課の職員、県の職員、地域の長老、もはや行政も民間の区別も無く一市民としてそれぞれの専門分野を活かしこのプロジェクトに参加した。
このようなプロジェクトでは多くの皆さんの討議により方針が決定する。しかし様々の意見を参考にし熟慮することは大切だがそれに流されると進まないばかりか道を誤る。強固な意志をもったリーダと協力スタッフが必要であった。

書きあがった木札

屋号に使う木板は桧なら最高だが予算ほとんどゼロのプロジェクトには望むべくも無く工場で製品の敷き板等に使う外材の板を材木店から無料で提供いただいた。それを会員の木工工場でみんなで手分けして切断、かんなかけ、穴あけ作業を行った。まさに手づくりの木札であった。
しかし140年の歳月は多くのものを変えた。特に明治以降製糸の町、鉄道の町として変遷してきた亀山では消えたり移動した屋号や町名も多々あった。
また現在のものと異なる場合が多いので、屋号に○○跡と入れることにした。
史実にできるだけ忠実に記載したかったが、そのお家により「うちは、この屋号と違うと先代が言っていた」と言われやむなく訂正したこともあった。
当時空家もあったようでそこは「空家」とせず「明家」とした。また「百姓家」は当時の住民のなまえをいれた。
木札への屋号の書込みをどなたにお願いするかについては、いまや生涯学習時代である。市内には公民館の文化講座「書道」を受講しサークル活動として学んでいる方が多くいる。この人たちにお願いした。「お一人おひとりの持てる力を生かして喜ばれ、それが地域の活性化に役立つことであれば」と各書道サークルの先生方にも快諾いただいた。多くの皆さんが挑戦し「私たち紙に書いたことはあるけど木板に書くなんてすごく名誉なこと・・・」と感激され、こちらも嬉しかった。

一斉に取付中


実際取り付けるには消耗品等費用も発生する。
鈴鹿、亀山創造圏ビジョン民間支援事業助成金申請をし認可された。

それぞれのお宅への取付趣旨の説明は一軒一軒根気よく行われた。
幸いメンバーに西町、万町の長老がいたので信用も得られ大きなトラブルも無く2001年10月21日の東海道伝馬制度400周年祭に間に合うよう一気に西町、万町、横町に取付ることになった。
この作業は休日を利用し市民活動ネットワーク「きらめき亀山21」に参加している有志の手で行われた。

関町の町並み創りの先輩である岡田集平先生の書による趣旨説明版

趣旨説明板
趣旨説明板も2箇所に設置されそこにはこう書かれた。
「亀山市は江戸時代の城下町、また東海道46番目の宿場町として栄えたまちです。そんな亀山から近年急速に古い建物が姿を消し路地も寂れて以前の賑わいも見られなくなりました。かかる現状を憂いた「きらめき亀山21」宿場の賑わい復活一座では協議を重ねた結果、歴史的なまちのたたずまいを復活する最初のプロジェクトとして屋号の木札をつくり該当するお家に掲げていただくことを始めました。屋号で呼び合ったまちの人たちの暮らしにはなぜか親しみを感じます。そしてどのような仕事をしていられたかも知ることができたらお互いの交流ももっと深まるのではないでしょうか。この度のしごとはまことにささやかですが材料提供を始め木札製作掲示など全て市民有志で行いました。今後も皆様の協力を得て東海道亀山が個性豊かなまちとなるよう私たちも活動を続けます。」

三重児童文学の会事務局長であり多くの昔の伝えはなしを上梓してみえる久野陽子先生は中日新聞の「みえ随想」にこう思いを書かれた。
「たばこや」「しおや」「おおぎや」などなど時代がかった屋号の数々にこの道の歴史を思い道行く人々の姿に道中着の旅人の姿など重ね合わせてみたりする。歩くしか交通手段の無かった時代のことさぞかし多くの歴史上の人物がここを通り過ぎていったことだろう。屋号札の並ぶ亀山東海道。それはこの町の歴史に息づいている道なのである。
この久野先生のメッセージには「何の商売かわかりもしない屋号なんか付けて・・・・」と一部の人から言われて落ち込んでいたスタッフ一同励まされた。

子ども達もいっしょに
年は変わり2002年となった。
亀山宿は更に江戸方向に東町、本町と続く。屋号看板を更に延ばそうと準備が進んだ。
東町は商店街となりもはや往時の面影はない。拡幅工事によりアーケードと白い壁面で覆われた商店街には木札よりトールペイントが似合うという意見もあったが今回は引き続き西町と同様の木札の屋号看板を設置することになった。
当初は一軒一軒のお家の壁に取付を考えたがタイル壁で施工上困難なのでアーケードの支柱に設置することにした。
小学生が授業で市内のウォッチングをしたところ、西町等に掲げられた屋号看板を見て「あれって何?」と先生に聞いたことがきっかけで総合学習の時間に屋号看板と東海道の歴史の話をする機会も得られた。西小学校の総合学習で説明

こんな質問が出た。
子ども.今までにいくつの屋号をつけたの?
答え.160個くらいです。
子ども.どうやって店の名前が分かったの?
答え.140年前にお殿さんが3000人ほどの家来をつれて亀山に泊まったことがありました。その時に、みんなが迷わないように地図を作ったのです。その地図が今も残っていたので、それを参考にしました。
子ども.「きらめき亀さん21」ってなに?
答え.実は、みんなも「きらめき亀さん21」に参加しているんだよ。去年の七夕で、みんなが短冊をかいてくれたよね。あの七夕をやっていたのが「きらめき亀さん21」だよ。いい亀山 住みやすい亀山にしたいと思っている人が集まっているんだよ。
子ども.何で「きらめき亀さん21」って名前なの?
答え.「きらめき」ってのは、きらきら輝いていこうという意味です。そして、亀山を「かめさん」って呼ぶのは、「うさぎと亀」の話からきています。
皆さん「うさぎと亀とどちらが勝ったか知っていますか?」「かめ〜(皆一斉に)」
「そうです。亀は動きは遅いですが、一生懸命さぼらずにまじめにやって勝ちましたね。この「きらめき亀さん21」もじっくり休まずに頑張っていこうということで名前をつけました。」
「最後に21ですが、この集まりを最初にした日が2001年の1月21日です。21世紀最初の21日ということで、21とつけました。」
子ども.みんなが集まったきっかけは?
答え. 昔から亀山には、亀山を良くしていこうと思っている人がたくさんいました。だけど、ほかの人が何をしているかみんな分かりませんでした。だから、みんなでお互いの考えや活動を教えあい、協力してやろうということになってこの会ができました。

私達もお手伝い

こうして「私も屋号の取付けを手伝いたい」という子どもも出てきて、夏休みのある日、子どもたちもまじえて東町の商店街に屋号の看板を取り付けることになった。
こうして東町にも約100枚の屋号看板を付け終った。ずらりと並んだ木札は壮観であるが残念ながらその屋号でどんな商売をしていたのかわからないのが大半である。今後何かの資料が発掘されるのを期待している。




ついに全域完了へ

次に残すのは本町であった。かって栄えた本町は時代の流れで商売をする家も減り駐車場になったり空家も多くなっていた。屋号取付の趣旨説明とお願いは難航した。市役所の事業と誤解されたり市民活動グループというと、後で法外な金を取る、うさんくさい団体と思われ、けんもほろろに扱われたこともあった。信用を得るため教育委員会元学芸員の先生の講演を開き地区の皆さんに聞いていただいたりもした。
鋳掛屋さんが住んだことから昔は鍋町と呼ばれた本町通りは道のりも長く地区によりお家により、かって栄えた街道への思いもそれぞれ異なる。
ご理解が得られたお家から飛び飛びになったが屋号の木札を取りつけることにした。
このような作業では様々の人間模様にもぶつかる。事前にご主人に承諾をもらって取付に行くと奥さんに「あんた達はチラシを入れただけでいきなり取り付けるんですか」などと怒鳴られ退散したケースもあった。
土地の所有でトラブルとなっているお家では駐車場に取付たら相手に「誰の許可を得て付けたんだ・・・」とこれまた怒鳴られた。
「うちが本家だからこの屋号は違う」とか断られることもあった。
いずれにせよ無理してまで取り付けるのが本意ではないから時を待つことにした。
もちろんこれらのケースは極々一部に過ぎない。多くの皆さんからご苦労様ですとお礼を言われ、お茶等ふるまわれたりお手伝いもいただいた。
近所の皆さんが集まってきて昔の屋号談義が広がったこともあった。

何してるの?むかしの屋号なの。

これらの取付作業はミニコミ誌に報じられ地域のケーブルテレビも取材に来て撮影とインタビューが行われ後日放映された。
こうして2003年の夏には亀山宿の東の端(本町4丁目 露心庵)から延々と東町、横町、万町、西町を経て京口坂までの約3km東海道亀山宿の全てに約400枚の屋号が掲げられた。
その年の8月初めの七夕祭りではその完了を祝してミニ笹飾りがそれぞれの屋号看板に飾られ多くの皆さんに喜んでいただいた。
屋号はわかっても、それが何の商売をしていたか判断できる例は少なくそれを想像することも、かって栄えた街道を思い起こすきっかけになればと思う。できることならそれぞれのお家が自分の場所の過ぎ去った時代をしのびその屋号を大切にし、将来はもっと立派なオリジナルの屋号看板を作り掲げていただけたらと思う。

お城見庭園完成まで
万町西町への屋号看板が取付け終わった後、思いがけないニュースがメンバーの県職員より知らされた。翌年(2002年度)の三重県の県道整備事業として企画・計画段階から住民を交えて、ワークショップ等の手法により、基本計画、実施計画、詳細設計等の作成を行う事業が決定した。
名称を宿場のにぎわい復活プロジェクト(亀山市)とし県道亀山停車場石水渓線と他1線において、修景、サイン等の整備により、東海道宿場町の歴史を感じさせる道路をつくり、地域の個性をいかしたまちづくりをするという。
緊縮財政の折、その裏ではかなりの折衝と屋号看板取付の実績への状況説明がされたと想像できる。
きらめき亀山21「宿場の賑わい復活プロジェクト」 の活動プロジェクトを三重県も協働で行うということで事業として予算化し、その名前も「まちづくりプロジェクト事業・宿場の賑わい復活プロジェクト」と決められた。

ここに一冊の冊子がある。三重県県土整備部住民参画チーム発行の西町での県道整備事業に伴うワークショップ記録誌である。

地域のみんなでワークショップで意見の出し合い

この冊子には「きらめき亀山21」より誕生した町並み保存分科会(現:宿場の賑わい復活一座)の活動により東海道亀山宿の街道の一軒一軒に往時の屋号看板が設置され、それがきっかけで県の事業として住民参画での県道整備とポケットパークの設置へとつながっていった過程が克明に記録されている。このプロジェクトは実に多くの人たちがかかわりそれぞれの専門や特技を活かし実現にこぎつけたがその裏で公式な記録冊子には書けない数々のドラマがあった。ワークショップでは様々の意見や希望が出た。茶屋やトイレ・駐車場の設置・池の側への橋等である。しかしことごとく行政と法の壁にぶつかった。所詮道路である。今回は県の道路整備事業であり建築物の設置や新規の用地買収はできなかった。道路への案内板埋め込み程度しかできないとさえ思われた。このプロジェクトの推進役である担当県職員の激務の日々が始まった。関係部署との折衝・説得に何日も費やしたといわれる。こうして多聞櫓と池の側を望む坂の上にあずま屋と日本風庭園のお休み処が実現することになった。しかし植樹や花壇に不可欠の水道には困った。事業の性格上、県としては設置できないとの回答であった。水が無ければ植樹しても意味がない。地元自治会でも年度内にそんな工事負担を受ける財政の余裕は無かった。舗装が終わってから再び水道工事で掘り返す愚かなことは許されなかった。もう時間の猶予は無かった。関係者の知恵の出し合いと担当県職員による粘り強い県内部の折衝が行われたと聞く。地元の人をして「今回の担当県職員ほど地域のことを考えてくれる人はいない」と言わせたのだった。そして劇的に水道問題は解決し素晴らしい庭園が実現した。
「自分たちの手でできた庭園だから、ごみは捨てないだろうし、あれば拾うだろう。あとあとまで愛着をもって見守っていける」と地域の代表は語る。

完成したお城見庭園(お披露目会にて)



この庭園は「お城見庭園」命名され昨今の街道歩きブームで来訪される人々の憩いの場となっている。
難航の末できた、あずま屋からは池の側と亀山城多聞櫓が眺望できシンボルツリーは下枝を京口坂に向けて力強く張った黒松である。しだれ梅に楓、縁取りには亀山の主要産物である茶の木が植わっている。庭園の下には「東海道 亀山宿」と書かれた道標が据えられ石段の登り口壁面には亀山領内東海道分間絵図版が埋め込まれ往時の様子をうかがわせている。
この庭園を地域で維持しようと「たまり会」というグループも組織され定期に清掃や樹木の剪定を行っている。「たまり」とはこの庭園をたまりの場にしようという意味と江戸時代からこの坂の上で醸造され人々の食生活を支えてきた醤油の意味も兼ねている。

これらのプロジェクトは2003年度に「中部の未来創造大賞推進協議会」より「第4回中部の未来創造大賞」大賞を受賞した。
この賞は国土交通省中部地方整備局他が参加する審査機関が民間、行政の垣根を越えた幅広い分野で取り組まれている活動を表彰し、広く一般に紹介することによって、これからの新しい中部の「地域づくり」に役立てていくことを目的としている。 

 
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