◆1 「獅子舞」布気皇舘太神社(布気町野尻)
当たり年(3年ごと)の元旦から3日
布気神社の獅子舞は、江戸時代から続いているもので3年ごとに行なわれる獅子舞の神事です。
四方を舞い清める四方舞(しほうまい)、勇壮に舞う乱曲(らんぎょく)、ゆったりと舞う花の舞(はなのまい)
の3種類があり、亀山市の無形文化財に指定されています。
この獅子舞は、布気町野尻地区の氏子によって伝承され、12支のうち、うし・たつ・ひつじ・いぬ年の元旦から3日にかけ、神辺地区内の各氏子の家々を回り家内安全、五穀豊穣を祈願するものです。
当たり年の前年の10月に、神役(獅子舞に関わる人たち)を決めます。口取りと呼ばれる天狗の役を担う小学生やお頭と呼ばれる獅子の舞わし手、笛、太鼓の人々も2ヶ月余りに亘って稽古を積み重ね、古式に則った獅子舞の伝承が行なわれます。
普段この獅子頭は、地区民から「明神様」と呼ばれ、御神体として神社に祀られています。
元旦の未明、身を清めた神役によって獅子頭に胴体部分に当たる舞衣(まいぎぬ)が取り付けられ、夜明けを待って最初の舞である「衣付の舞」が布気神社境内で奉納されます。
その後、神辺地区の各町々で祈祷の舞を行い、3日の夜には、神社にお納めする「舞い込み」の神事が行われ、無事獅子舞神事が終了します。(昭和31年市指定文化財)




◆2 田茂町の獅子舞亀山神社(西丸町)田茂町公民館前
うるう年の1月1日
五穀豊穣、家内安全を祈願し、4年ごとの元旦に獅子舞を行ないます。
当日は朝6時頃神役の人達は当番の宿の家に集まり身を清めます。
そして、まず亀山神社拝殿において神事のあと境内で獅子舞「衣付の舞」を奉納します。
その後地区に戻り10以上からなる本舞を約2時間半かけて行ないます。
前半は四所山の舞・四方下の舞・銭の舞・刀の舞・日の丸の扇子をくわえて四方払いの舞など、四方の厄を祓う儀式の舞です。後半は花の舞です。大きな笹葉の付いた竹に色鮮やかな風呂敷・布切れ・手毬・銭などを取り付けた下で舞います。獅子と口取りが細やかな芸を披露するのがこの時で、鞠つき、扇子のやり取りなどもあり、舞のクライマックスです。
田茂町は亀山神社の氏子で、同神社の獅子舞を引き継ぎ守ってきました。明治25年、当時槙尾村大字田茂の青年会の記録に残っています。舞は7人の神役、御先はその代表、笛2人、太鼓1人、獅子の御頭1人、後舞と猿田彦の後に当たる口取りは南小学校の児童で行ないます。その後各家々を廻り、家内安全を祈願します。



◆3 厄除け星まつり不動院(辺法寺町)
節分 2月3日

不動院では節分の2月3日に、「厄除け星まつり」が行なわれます。
朝早くから、寺役や町内の世話人さんたちが、境内に幟を立てたり、豆まきの幕を張ったりして準備を整えます。
名古屋,四日市などから毎年お参りに来るという人もあって、堂内は身動きできないくらいいっぱいになります。
参詣すると間もなくぜんざいのもてなしがあり、身も心も温まります。そして午前11時から昼の節分会が始まります。
護摩を焚く火が弾ぜ、煙が堂に立ち込める中、厄除星祭護摩祈祷が行われます。1年の厄を除き、福を招くお祈りです。参詣者も、それぞれ家内安全、無病息災など、心より念じます。
本尊の不動明王は秘仏ですので扉の内に。扉の前には前立ちの不動明王が安置されています。
お参りが終わると、地元の方が準備してくださったお斎(食事)をでいただきます。
午後7時から、夜の祈祷が行なわれます。提灯に火の入った境内は昼とは違った雰囲気に包まれています。小学生、中学生も多く見受けられます。参詣者の大部分は地元の人たちで、昼のように多くはありませんが、顔なじみ同志、ねんごろにお参りをします。
祈祷が終わるといよいよ豆まきです。裃姿の寺役の人達が鐘楼や庫裏の縁側から、人々の頭上に豆をまきます。
福豆をいただき、心身共にあらたまった気分で立春を迎えることができます。





◆4 御鍬祭(湯立神事)南宮大神社(太森町太田)
2月中旬の休日

太田の御鍬祭は、南宮大神社の大切な年中行事の一つとして、地区の人々に守られ、伝えられています。
近年までは2月14日が祭日と決まっていましたが、今は2月中旬の休日に行なわれます。
鍬に直接関わる神事はありませんが、新しい年を迎えて、農作業の安全や豊作を願い、地区の人々の厄払いをする祭です。
当日は、境内の一隅に祭壇が設えられ、そのかたわらでは桧葉茶が大釜で煎じられています。また、大焚火が境内を狭しとばかり火の粉を上げ、祭気分を盛り上げています。
午前10時、境内の祭壇の前で神事が始まります。祝詞のあと、地区の人々は、神主さんに御祓いを受けます。
そして、拝殿に移り神事が続きます。この時、白装束の世話役さんが、桧葉茶に浸した笹の葉を持ってきて、参詣者に振りかけます。
神前のお供え物は米や酒、野菜などが一般的ですが、御鍬祭では必ず「餅と里芋」が上げられます。
餅は長方形の切餅で、里芋は蒸して米の粉でまぶしてあり、”まぐわの芋”と呼ぶそうです。
この供え物はおさがりとして全戸に配られます。
境内では無病息災を願って焚火の熾で焼いた餅や、桧葉茶を頂きます。
*里芋は小芋・孫芋と一株で増えていくところから、「子孫繁栄」の願いが込められている。
焚火の温もりと人の温もりの伝わる行事です。




◆5 一心院の初午祭一心院(川崎町堂坂)
3月初めの午の日
一心院の初午は、毎年3月の初めの午の日に行なわれます。
初午は、和銅4年(711年)京都の伏見稲荷において、数年続いた長雨、水禍、凶作を封じるために大規模な呪術が営まれたのがその起こりだといわれています。
本堂(釈迦牟尼如来)の他に観音堂(馬頭観音)・稲荷さんがあるのは、その昔から、ここ一心院で村の繁栄と豊作が祈念されていたからだろうと思われます。
初午でいう厄とは節目のこと、厄年・五穀豊穣の他に今では、家内安全・商売繁盛などの祈祷が行われています。
朝から地域の人達が、米などを入れた供養袋を手にお参りに来られます。初午のこの日だけ開帳される馬頭観音に、ろうそくを灯しお祈りします。
堂坂地区の年輩の方の話では、むかしは近隣の村々から大勢の参詣者があり、御幣川にかかる金瀬橋あたりから寺まで人が数珠つなぎになるほどで、境内や道に露店が並び大変な賑わいだったそうです。また「朝から餅をついて親戚に配ったり、ご馳走したりして、楽しい一日でした」と、子どもの頃を懐かしむ人もいました。
午後2時から初午絵、大般若祈祷(だいはんにゃきとう)が観音堂で行なわれます。
堂内には、厄年の人の名をつけたお供え物が、何段もある棚に並べられています。
鉦、太鼓の鳴る中を般若心経が唱えられお祈りが始まります。厄年の人たちの名前も読み上げられます。
そして、「降伏一切大魔最勝成就(ごうふくいっさいだいまさいしょうじゅうじゅ)」と繰り返し唱えられる中、5人の観音講中の人たちも、20冊づつの経本を扇を開くように(転読)して祈ります。
最後に、参詣者が祈祷を受けて初午会が終わります。なお、本堂で開帳されている涅槃図拝観や、一心院縁起などのプリントをいただくのも、毎年の楽しみです。




◆6 涅槃絵万寿寺(小川町)
3月15日

涅槃絵は、お釈迦さんが入滅された陰暦2月15日(現在は陽暦3月)に寺に伝わる涅槃絵を堂に掛けて行なわれる法絵(ほうえ)です。
涅槃図は、寝釈迦を中心に、臨終に急ぐ母の摩耶夫人(まやぶじん)や寝台を囲んで悲しみにくれる弟子たち、菩薩たち、そして鳥や獣・虫や魚までこの世に生を受けたものすべてが嘆き悲しんでいる様子が描かれています。
また涅槃図は、古さ、大きさ、絵の内容も異なります。
大方の涅槃図に猫は描かれていないけれど、見たことのない象は絵師の想像で描いたのだそうです。
涅槃図は3月15日を中心に2日間または3日間各地の禅宗のお寺で拝観させてもらえます。
坂本地区は、お堂はありませんが仏像と共に涅槃図も地区で大切に守られ、3月15日には生活改善センターに祀られます。
以前は「寝釈迦さん」「お釈迦さん」と親しみを込めて呼ばれ、この日は、地域の紋日(もんび)でした。
お餅をつき、お寿司などを作り、親戚に持っていったり、家に招いたりした特別の日でした。しかし、生活環境の変化につれ、いつの間にか廃れてしまいました。




◆7 ののぼりさん野登寺(安坂山町)
4月7日

4月7日は、「ののぼりさん」と親しみを込めて呼ばれている野登寺の縁日です。野登寺は野登山(851.6m)の山頂近くにあり、昔から雨乞いや米作りにかかわる寺として、安坂山町(安楽・坂本・池山)、両尾町(原尾・平尾)の人々によって守られてきました。
縁日の4月7日は、庄内(鈴鹿市)方面からも多くの参詣者が訪れます。本堂では諸願成就の護摩祈祷が行われますが、本尊は秘仏ですので開扉はされません。(60年毎に開扉法要、30年・半開扉)
また、野登寺の周辺一帯には熊笹が自生しています。「葉一枚が米一俵」との願いを込めて、なるだけ葉の多いのを探し、苗場札と呼ばれる「鶏足山牛玉宝印」(けいそくざんごおうほうし)と書かれた札と共に持ち帰ります。
これらを苗場の水口に祀ります。現在では育苗のビニールハウスや田んぼの水口に祀ります。
庫裏の前の広場では、大茶釜で湯を沸かしお茶の接待がなされていました。この茶釜は最長の幅が60cm、高さ44cm、天保2卯年7月大吉日「寄附現住昭空代」などと銘が刻まれています。
野登寺は平成10年の台風により大被害を受けましたが、地元の人を中心に多くの人の努力によって平成の大修復がなされました。平成16年5月22〜23日の落慶、開扉記念祭には稚児練り・火渡り・祈念植樹・かんこ踊りなど催され多くの参詣者で賑わいました。平安時代の昔から受け継がれてきた野登寺、ブナ原生林を代表とする大自然の「ののぼりさん」を大切に後世に伝えていかなければと強く思いました。




◆8 白木の虚空蔵さん明星山国分寺(白木町)
4月13日
明星山国分寺は、行基菩薩が開基し、聖武天皇の勅願寺であったと伝えられています。本尊の虚空蔵菩薩は福徳・智恵の両門を兼ね備えた仏さまとして、里人や近郊の人々に「虚空蔵さん」「虚空蔵さん」と古くから信仰厚く親しまれています。4月13日の大会式にはふもとの上白木に奉納の大幟がたてられ、赤い猿ぼぼが沢山綱につるされます。昔は草履ばきで汗だくになりながら歩いて登る人が一日中続きました。今はふもとまで自動車で行く人が多くなりました。
毎月13日の会式には護摩供養を受けるため、他市からお詣りする人も多く、山の中腹にある国分寺の境内は参詣者で賑わいます。谷本道賢住職は、家内安全・交通安全の願いを込めて、杖に般若心経を刻み、希望する人に授けられていました。祈願第11897号(平成12年頃)の杖を持つ女性は「今も大切に使っている」とのことです。
白木国分寺
御開帳 拾参年毎未年
大会式 毎年4月13日
会式  毎月13日
納虚空蔵菩薩護摩供養
12月第2日曜日午後1時




◆9 熊野権現春祭(火渡り)石上寺(和田町)
4月第2日曜日
熊野権現社は、延暦年間(782〜805)紀国那智の神を勘請して祀ったと伝えられていて、石上寺の境内にあります。この社は、もともと現在の和田神社の奥にあったのですが、明治の初めの廃仏毀釈によって、明治27年に石上寺の境内に移されました。そして90年近くの時を経て昭和57年現在の地に再興されました。
これを機に、和田町の人たちの話し合いの結果、熊野権現社の春の大祭りが行なわれるようになりました。
石上寺の古文書「新熊野三社の記」によりますと、神のお告げによって、ここに熊野権現を祀った大和の国の紀の真龍という人が和田に来られた日「延暦の15年、弥生の4日となん」とありましたので14日に近いということで4月第2日曜日と決められました。
当日は、熊野権現社の扉が開かれ、神酒、海の幸、山の幸が供えられます。祭りが行なわれる広場は、もと権現社が建っていた所です。中央に段木(松などを井形に組んで桧葉で覆ってある物)が準備されます。
当日ここは結界で神事が終わるまで、一般の人は入ることができません。午後1時、石上寺の住職さんと6人の山伏が法螺貝を吹きながら現れ神事が始まります。まず、正面、四隅へ破魔矢が射られ、段木に火がつけられます。
その火の中に供物や参詣者の願い事が書かれた護摩木が投げ入れられ祈祷が行われます。火の爆ぜる音と境内に立ち込める煙、読経の声、太鼓の響き・・・・無我の境地に浸るひとときです。
次の行事、火渡りは3時頃から始まります。住職を先頭に山伏、地区の役員が渡ります。そして、今か今かと待っていた子どもたちが列になって続きます。ここの火渡りは「薪渡り」といって、だんだん薪が燃えてきて熱くなるということです。




◆10 「名越(なごし)の大祓」能褒野神社(田村町女ヶ坂)
六月三十日
 田村町名越地区によって守り継がれている
「名越(夏越なごし)の大祓」は能褒野神社で夕方の6時から執りから行なわれます。
 当日は、名越地区の方々によって四隅に笹竹を配し、幣を垂らした縄が拝殿前に張られます。人々はここをくぐって身を祓い清め、拝殿へ上がります。
 神主さんが祝詞(のりと)を詠み上げたあと、拝殿でお祓い(はらい)を受け、玉串を神前へ捧げます。そして木綿の白布を1人ひとり細かく裂き、それに息を吹きかけます。これは、他の神社での形代や人形と同じような意味を持つ神事です。
 神前には、地区の人々によって御撰米(神前に供える洗米)と赤飯が供えられます。赤飯はお下がりとして地区の人々が頂いて帰ります。
 川崎地区全体の鎮守である能褒野神社の神事にな名越地区だけとはなぜなのでしょう。これは能褒野神社へ合祀された名越の神社の神事で名越地区が能褒野神社の地続きという地の利がよかったことなどが考えられます。
 「名越」という地名はいろいろの節があるのですが、この「名越の大祓い」に由来するとも云われています。言い伝えによると、川で禊(みそぎ)をし、神事に臨んだといわれております。その昔、安楽川は現在よりももっと近くを流れていましたので、川原で神事が行なわれていたと思われます。




◆11 「辺法寺の天王さん」(辺法寺)
七月中旬
 「天王さん」と親しみ深く呼ばれる、牛頭天王は大変荒っぽい神様だそうな。
  ー牛頭天王(ごず)は頭がう歯で体が人間の形をした地獄の鬼のことだというー(三省堂大辞典)
 この荒っぽい神様に子供がお参りするのは、疫病を追い払っていただくためらしい。また、農村では稲の病気も祈願したようです。
 祭日は7月14日ですが、近年はこの日に近くて地区毎に都合のよい日に行われているようです。
 夕暮近くなると、天王さんの前や集会所に提灯(ちょうちん)が灯されます。
天王さんは、小学生達の手により、色紙の輪飾りや折り鶴・やっこさん、切り紙などで前もって飾られ祀られています。以前は、ほおずきちょうちんを並べて飾っただけで、これは青年団の仕事だったそうです。お供え物は、畑で採られたきゅうり・なす・トモト・西瓜などの野菜です。
 天王さんは子ども達からお年寄りまで集まり普段着のままでゆっくり話ができるよい場所となっています。子ども達は、お菓子や、ジュース、花火をもらい遊びます。そして、組長さん達に準備してもらったごちそうを頂きます。以前は男性が、きゅうりもみ・漬け物・酢の物、なすの味噌合えなど持ち寄って酒のつまみにし、夜遅く今で遊んでいたということです。子ども達も以前は、きもだめしや、陣取り、缶けりなど夜遅くまで遊んだり、中学生くらいの子は他地域まで行ったりしていたそうです。
 辺法寺町では、北辺法寺のほか上坂(えざか)・西尾(にしお)・野元坂(やげんざか)西色(にしき)の地域がそれぞれの形で天王さんを祀っており、今に受け継がれています。




◆12 「虫送り」 西念寺(木下町(このした))
七月三十一日
 田を荒らす害虫に姿を変えた悪霊を松明(たいまつ)の明かりで誘い出し、鉦(かね)・法螺貝(ほらがい)の音で村から追い出すという、かなり古くからの行事が市内では現在木下町だけに残っています。
 子どもを中心に地域ぐるみで行なわれています。当日の午後から松明作りが始まります。竹を芯に麦殻、稲藁(わら)を巻き付けた3mもの松明を30本ほど作ります。夕方の6時頃からは、西念寺のお堂で百辺遍念仏です。子どもの輪の中に大人も混じって、大きな念珠を手に、鉦(かね)法螺貝(ほらがい)の音に合わせて回すこと25分。
 いよいよ和尚さんに火をつけてもらった松明を手に虫送りに出発。村中をねり歩き、暮れなずむ広い田んぼ道を鉦をたたき、法螺貝(ほらがい)を吹き鳴らしながら松明の明かりが行列となって鈴鹿川に向かいます。
 そして、鈴鹿側の堤防で松明をまとめて焼きます。




◆13 「傘鉾祭り」 忍山神社(野村町)
十月十四日
 忍山神社の祭神の一座であるスサノオノ命(みこと)の荒魂をなぐさめるため、古くから行なわれている神事の一つです。
 大竹で作った直径2m、高さ5mの大傘一対は、5色の色紙で貼られ、中央先端に純白の大幣、周囲の割竹に小幣が取り付けられています。
 大祭当日は、神前に傘鉾を祀り神官が御祓いします。その後、数人の白装束の青年や厄年の人に護持された傘鉾が、神官や裃(かみしも)・袴姿の氏子総代の人たちに守られ、太鼓の音も勇ましく、氏子の家をまわります。
 氏子たちは出迎え、御幣や傘鉾の紙を奪い合います。一巡すると傘鉾は骨ばかりの姿になって忍山神社に帰ります。氏子は御幣を各家の神棚に祀り、家内安全と五穀豊穣を祈ります。
 昔は疫病から逃れ、病魔を祓うといわれた湯立神事が行なわれました。大釜が今も残っています。         (昭和27年市指定文化財)




◆14 「川合の羯鼓踊り(かっこおどり)」 須佐之男神社(川合町)
十月初旬の休日
 秋祭りには、須佐之男神社(すさのお)で羯鼓踊りの奉納が行なわれます。
 神社と公民館に立てられた10m近い幟(のぼり)、道に辻に掛けられた行灯(あんどうん)が祭り気分を盛り上げています。
 代表者が神社で祈祷を受け、午後6時30分から舞が始まります。中央の大行灯(しだれ柳)を囲むように揃いの浴衣に黒足袋、草鞋(わらじ)履き、花笠を被った若い衆が直径50cm、長さ80cmの羯鼓を抱え、両手のバチで打ちながら唄妻や大太鼓、ほら貝、横笛に合わせてとび跳ね、走り回る勇壮で荒々しい踊りです。踊りには、お庭入り、お宮、牛若、大陣役など8種類があります。
 唄妻の詩歌は長い年月、人々の口から口へと唄い継がれてきたもので、優雅で繊細な情景が描写されています。「祇園ばやし」と歩ばれる「練り」は京の都の流れを汲む名曲で、県下では川合町だけに残る貴重なものです。
 神社で奉納のあと大勢の人々の待ち受ける公民館へと練り入ります。
 広場いっぱいに踊りが繰り広げられ、踊りはいよいよう勇壮で荒々しくなります。
 川合町の羯鼓踊りは平成元年、全戸入会による保存会が発足して、ニューヨークのカーネギーホールや祭り博三重などのイベントで踊りを披露しました。(昭和38年市指定文化財)




◆15 「池山の羯鼓踊り(かっこおどり)」 (安坂山池山)
秋祭り(十月十日前後の休日)
 池山の羯鼓踊(通称かんこ踊り)は年3回行なわれています。
 8月14日のお盆は永源寺で、同24日の地蔵盆は野登寺の下寺です。秋祭りは農作のお礼として最も盛大に行なわれます。
 当日の夕方、踊り衆、唄妻衆、笛方はそろって自治会長宅の庭で「殿の踊り」を舞い、笛、太鼓ではやしながら、池山公民館へと向かいます。
 傘鉾を中心に据え、正面に大太鼓、その両側に唄妻衆、笛方、が並びます。傘鉾を囲んで15Kgもの太鼓をかかげて、浴衣、たすき掛け、花笠を被っての踊りです。
 「庭入り」に始まり「野登」「山伏」「長座(ちょうざ)」「花見」と続きます。ひと踊り20分から40分、太鼓、笛、唄、ほら貝と相和して、熱気が見物人にも伝わってきます。
 かんこ踊りを後の世に伝えていくため、近年小学生(5・6年)も踊るようになりました。「庭入り」と「野登」の踊りです。衣装は同じですが、太鼓は半分程の重さ、笛方に女子が加わります。昔は「恋の踊」というのがあったそうですが、今では幻の踊りということです。
 これまで県内外のイベントに、数多く参加しています。(平成5年市指定文化財)




◆16 「阿野田の羯鼓踊り(かっこおどり)」亀山神社(本丸町)農村公園(阿野田町)
十月十四日・十五日
 700年ほど前の雨乞い踊りを起源として、豊作を祝い神恩に感謝する踊りです。
 阿野田の羯鼓踊は毎年10月14日亀山神社の秋祭りに奉納します。
夕方6時に阿野田の公民館に多勢のこどもも大人も集合し、垂れ桜を形どった美しく大きな山車(だし)を先頭に亀山神社まで練り歩きます。神前では「かめやま神社」「陣役踊」を奉納します。豊作を祝い、神恩に感謝する優雅な踊りです。
 翌15日は美しく大きな山車を農村公園の中央に飾り、地区民総出の中、山車の周りで踊ります。
 最初は幼児と小学校低学年による「練り踊」「庭入り」。小さな体を力いっぱいくねらせて踊る可愛い姿に一斉に拍手がわきます。
 周りには、唄妻方6人、笛方3人、太鼓方3人、唄方6人、法螺貝(ほらがい)3人と、紋付姿の大人が大きく取り巻き、よい音色で一段と踊りが盛り上がります。
 中学校は「おかもと」「かめやま神社」そして高学年は「こま曳き」「庭入り」と続き、最後に中学生・高校生による勇壮な「陣役(じんやく)踊」で最高潮に達します。
 保存会を中心に昭和57年より後継者育成に力を入れ、女子も男子も一緒に、幼い子から高校生まで日々稽古を重ねて、地区の大事な伝統行事をして立派に育ってきています。
  ※羯鼓踊 通称呼名「かんこ」となまって呼んでいる(昭和43年市指定文化財)




◆17「亥(い)の子」  (両尾町平尾)
旧歴十月十五日
 平尾(両尾(ふたお)町)子ども会の行事のひとつに「亥の子」があります。
 意味を調べてみると、『旧歴10月の亥の日に行なわれる稲の刈り上げ祝の行事。猪の多産にあやかり、また、万病を払うまじないとして子どもたちが家々の庭先を石や藁束(わらたば)でついて回ったりする』と書かれています。
 毎年旧暦10月15日の満月に行っております。
 午後6時、子どもたちがそれぞれ家で作った「いのこ」(新藁で作った藁束)を持ちより、平尾自治センターに集合。太いのや、細いのやいろんないのこができあがっています。西と東に別れて出発。一軒ずつ庭先で「亥の子の唄」を歌いながら、いのこで地面を強く打ちます。打ち終わると御祝儀を頂いて次の家へ。
 戻ってきたときには、午後9時を過ぎます。さすがに子供たちも疲労困憊(こんぱい)。役員さんからお駄賃をもらい疲れた顔に笑顔がこぼれます。
 野登地区のほか市内の各地でも行なわれています。
  <亥の子の唄>
 いのこ いのこ いのこの晩に重箱拾うて
 開けてみたら  ○○○○○○
 いろてみたら   ○○○○○○
 この頃、この家、第繁盛
 新藁 いのこで祝いましょ
 それ、もひとつおまけに
 どっこいしょ




◆18 「下庄の大山の神」 (下庄町)
十二月七日
 山の神といえば「山の神」と刻んだ自然石が、人里近い山中や山裾にまつられているのが思い浮かびます。しかし、下庄の山の神はその名も「大山の神」と呼ばれていて、鳥居の奥の祠の中に祀られています。
 12月7日、山の神様は山へ上がられ山を守って下さいます。地元の人々は、朝早く大山の神の前で火を焚き、お神酒を供えます。
 昔は、お参りに来た人たちは、持ち寄った餅をこの火で焼いて食べました。黒く焦げたところをぱっぱとはたいて食べると、風邪をひかないとか病気をしないとか言い伝えられていました。
 また、天筆 和合楽 知福円満楽 終止千年のみどり 山野神祭 山野神祭礼 高く上がれ上がれ
  このよな言葉を四つ切りの半紙を継ぎ合わせて書き、竹の先に結びつけ火の上にかざして、高く舞い上がらせました。これを見て子どもたちは、習字が上達するとか、賢くなるとかいって喜んだそうです。
 お参りに来た人たちは、かまぼこ、ちくわなどをおつまみにお供えしたお酒をいただき、行事は一応終わります。
 近年はだんだんとお参りする人も少なくなり、現在60代以上の人が子どもの頃は喜んで親について行ったそうですが、今は子どもはほとんどこないそうです。
 2月7日には、山から下りられて田畑を守って下さる神様を迎える行事を行ないます。
 下庄地区では他にもいくつも山の神様が祀られていて、しれぞれの行事が伝えられています。




あとがき
 亀山市まちづくり推進会議は平成2年に発足しましたが、本年1月新市誕生を機に幕を引くことになりました。
 ここにおさめた伝統行事は、年2回発行してきた「まちづくり広報」19号から最終の34号までの7年間に掲載した16編に2編を加えまとめたものです。
 まだまだ注目するへき行事が各地に残されていると思いますが、はるか昔から守り継がれてきた地域の行事も、戦争やその後の経済構造、生活様式などの変化によって、途絶えてしまったものも少なくありません。そんな中で地域の人々の大変な努力によって今も大切に守り育てられている行事を知ってもらうことによって、暮らしや文化を見つめ直してもらう一端になれば幸です。
 これらの伝統行事の収録に当たりましては多くの方々から寄稿や資料提供など多大の御協力をいただきました。
心よりお礼申し上げます。

このホームページ作成を、こころよく許可いただいた「まちづくり推進会議」及び亀山市企画課に御礼申し上げます。
                「亀山の地域に残る伝統行事」 ホームページ製作スタッフ一同
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