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連歌師の島田宗長の手記に
関、亀山あたりの様子が記録されていることは
知られてますが、原文を読んだ人は少ないと
思いますので、はばかりながら現代文に訳して
みました。
愛知厚顔
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私は島田宗長、号を柴屋軒久庵という連歌師である。
連歌というのは五、七、五、七、七の和歌を、五、七、五と七、七を二人で詠みあうもの。はじめは茶会などの遊戯だったものが、この時代から各地の豪族、守護職、地頭などの有力者たちの間に広まり、芸術の域にまで達していた。私は初代の宗祇が没したのち連歌師の二世宗匠をしている。ときは足利時代末期、各地の有力者から連歌の歌会に招かれ、旅を重ねる歳月であった。私が亀山の関氏に招かれたのは大永五年(1525)。もう年も七十七才の高齢なので迷ったのだが、是非にと請われて決心した。
四月二十二日、近江から鈴鹿峠の坂下までいくと、亀山から出迎えの人が駕籠を用意して待っていた。この日は坂下の宿で一泊。この山はむかし斎宮女御が御下りされたとき、頓宮の仮の庵があったところである。
寝覚めにホトトギスがしきりに鳴いていた。
鈴鹿山しのに鳴くなる時鳥
都にいかに聞くとすらむ
しのに(しきりに)鳴いているのは、山を寄席とみているのだろうか。また西行法師がこの山を越えるとき
鈴鹿山うき世をよそにふり捨てて
いかになり行く我が身なるらん 西行
と詠んでいる。
鈴鹿山ふり捨てぬ身の悲しさは
老いかかまれる輿をかかれて
いまの私は輿(駕籠)に乗せられて俳諧を詠む老いの身だ。
きょう渡る影恥ずかしき鈴鹿川
八十瀬の浪を老いのしわにて
昼すぎに亀山についた。
宿は野村大炊介の邸宅。風呂に入って宿泊の接待を受けた。
翌廿三日の早朝、乗り物で出発、おりから雨模様の中を山の方にむかった。山々の尾根襞が重なる雨の景色、岩は高く苔ふかく松杉も鬱蒼と繁茂し村も遠く離れていく。この山の中に鷲山正法寺(現、関町鷲山、国史跡)という山荘があり、それは高雄山神護寺にもよく似ている。
まず入り口に大龍寺、手前の渓谷の小さな橋を渡ると、そこはまさに仙人の住む家のようで、恐ろしくも美しい自然の中である。
正法寺の主人、関何似斎に拝顔。彼はもと関民部大輔でいまは隠退している。きょうは点心と盃の接待を受け、雨の中を亀山に戻った。
翌朝は大変よく晴れた。正法寺の主人より招聘あり、朝飯から晩にかけての連歌興行会であった。一昨年の秋、京都に上ったときこの地に立ち寄ったが、そのとき
八十の瀬の水上たかし秋のこえ
と詠ったのを思い出す。このたびは
とるたひももとつは高し八重榊 一閑
ゆふかけて鳴け山ほととぎす 宗長
一日おいてまたひと折り
うへてこなた幾ことし生の園の竹
また二三日して正法寺で連歌会があった。
前の晩から一宿。主人の何似斎が鷲の巣山を見に誘った。茨の細道はなめらかで、上からみなぎる渓流は谷を広く浸して海のようだ。たまたま手をかけた岩も足は止められない。巌を盾とし矢倉門は石を棟柱。四方五十町は谷を巡って見えた。この天然の要害、幾万の軍勢で攻められても、恐れることはないだろう。この日は正法寺の並びにある興禅寺の接待。ここは
東福寺の門徒が住職である。
鷲の住む山とや遠きほととぎす
そのうち酒盃も出てときも数刻におよび、帰路は夜になった。
また二十五日は月次法楽とかの催しが慈恩寺(現、野村町在)であり
五月雨にますけの水のすえ葉哉
また二十九日は新福寺で
かおる香は花たちばなの五月かな これは四郎種盛の代。
六月二日。また関の正法寺にて歌会あり、また盃をいただいて数献、夜も遅くなった。ある人から扇に何でも書いてと所望されたので
誰をかも友とは言はん長らへば
君と我とし高砂の松
亀山の旅宿主人、野村大炊介は、この春から雁を一羽駕籠に入れて飼っている。きゅうくつでまた可愛そうなので、宿の庭に水を桶に入れ色々工夫してなつけさせたが、空へ解き放つ日につぎの歌を柱に書き付けた。
かりふしも露かけすつな誘いこん
秋をたのむの友に逢うまで
ある日の夜、何似斎の息子、関次郎正祥が思いもかけず旅宿に来訪。
人よりも老の思わんことをしそ
今朝は乱れて心ともなき 正祥
その返歌
心にもあらで乱れて思うてふ
人の言の葉くまやなからん 宗長
正法寺では、五月雨どきの生活は大変だろうと思うのに、人々の心根は美しく、日ごとに来訪して慰められることが多かった。こんな日々のあるとき、関氏の一族で神戸右京進盛長物という人から話のついでに
『この尺八は関阿彌の作った名品です』
と一本の尺八を見せられた。
『たいへん美しいですね』
と申したところ、彼は喜んだので一首詠んだ。
暁の友を添えたる石の上(いそのかみ)
ふりにし老の甲斐はなけれど
また別の人から篠綜煎餅を二色贈られたので
心さしみ山のしけき篠綜
数は千秋千べいにして
また杉原伊賀入道という人の自筆歌集一巻も見せられたが、ここかしこが
虫食いだらけ、所望し借用して写しとった。これを知ったいまの伊賀守孝
盛がやってきたので
今も世はさもこそあらめ石の上
ふる言の葉や類なかるらん
亀山には慈恩寺、新福寺、阿弥陀寺、長福寺など四ケ寺。各律院七堂が
ある。それぞれ宿を持ち東西に市も立つ。
亀山に逗留すること五十日にも及んだが、これは関何似斎ほか亀山の人々の、ひとかたならぬ暖かい心ずかいがあったからである。この地に後ろ髪を引かれる思いで六月五日亀山の宿を出発し、伊勢と尾張のあわひ(間)を舟でわたり、つぎの訪問地の尾張に向った。
静かなる波のあはひの海ずらを
かえり見る見る行く空ぞなき
◎参考文献 【宗長手記】 続群書類従第十八巻
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