東海道の昔の話(10) シーボルトの参府旅行 愛知厚顔 70代元会社員 2003/7/20投稿 |
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西暦千八百二十六年 三月二十七日(旧暦二月十九日) 紅毛碧眼の西洋人が四っつの駕籠にゆられている。 駕籠の周囲は四人の屈強な侍が囲み、また前後にも役人があたりを伺いながら歩いている。まるで重罪人を送っていくようだ。 この西洋人たちは長崎出島のオランダ商館の人々である。先頭の駕籠は商館長、そして二番目の駕籠はシーボルト、彼は商館の蘭医者である が国籍はプロシアである。鎖国の日本で唯ひとつ許された外国オランダ、しかし長崎の町でのきままな行動、そして日本国内の自由な旅行などは絶対に許可されない。 あまつさえ数年ごとに江戸城まで出向し、幕府に挨拶する義務を科せられている。 『…駕籠から出ることも許されず、決められた宿以外は自由 に振る舞えない。こんな参府の旅もこれで参度目になるのか…。 もう慣れっこになったはいえ、もっと自由に日本を見たい。 自由に人々と話したい。何とかならないものか…』 誰かにこぼしたい心を、弟子の湊長安がいたわる。長安はシーボルトが長崎で日本人むけに開いた蘭学の鳴滝塾の教え子である。 『シーボルト先生、お疲れでしょう。もうすぐ藤ノ木茶屋です。 筆捨山がよく見えるところですよ。商館長にお願いして そこで休憩しましょうか』 ところがシーボルトにとって、今回の上洛参府はかなり上機嫌なのである。というのは、湊長安はじめ主な日本人の弟子たちが旅を先行し、その土地の珍しい植物や動物を採集し、標本にしてはシーボルトの泊まる宿屋に届けていたからである。 その中には欧州の学会にまだ知られていない新発見の種もあった。 発見者の栄誉は学者ならば誰もがかなえたい。 実は前日の坂ノ下宿では、長安やその友人たちが採集したコレクションが、かなりな数にのぼっていた。 鈴鹿峠を越えるとき、駕籠の隙間から見えた植相は カシ、ブナ、カエデ、イトスギ、ニオイヒバ、 クスノキ、タラノキ、イボタノキ、ユキザサ、ウツギ、 そして希にイチイ、マサキ、ネムノキなど またほかにもシーボルトが知らない花や灌木が生えていた。 ほかにも村人が宿に持ち込んだものに、数種の薬草や鉱物などがあった。なかでも彼を有頂天にさせたのが、大変大きいサンショウウオであった。 『…この魚は初めてみるサンショウウオだ。 いままでも各地でサンショウオは採集したが、これほど 見事な大物はなかった。おそらく新しい発見になるだろう…』 この魚は鈴鹿川源流のOkude(奥出川)でとれたというが、村人の話ではときどき川から岸辺にも上がってくるという。これは大変に珍しい魚である。 「これはさっそくヨーロッパの学会に発表報告しな くてはならない…」 彼の心は喜びで一杯に満ちあふれていた。 『シーボルト先生、藤の木茶屋に着きましたよ。筆捨山が 真ん前に見えます。商館長から役人に頼んでもらって、 ちょっと休んでいきましょう』 弟子の声に 『そうですね。ゆっくりお茶でも飲みましょうか』 彼は我にかえっておうように返事をした。のちにオオサンショウウオとして学会に報告され、彼は発見者となり、またこの日が発見日となった。 いまは国の特別天然記念物に指定されている。 参考文献 シーボルト「江戸参府紀行」 |
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