この頃の幕府がいかに江戸薩摩屋敷の浪士を恐れたか、その実例を挙げましょう。
ある日のことです。浪士が二三十人ばかりが柳橋の某料理屋で酒を酌み交わしていましたが、宴たけなわになる頃、原三郎、松田正雄などと言う血気盛んな浪士が五六人ほど、剣を抜いて舞い始めました。やがてそれが乱暴狼藉に発展します。
同席した者たちも恐れて逃げ去り、酒饗に応じて舟を隅田川に浮かべ、銃を持ち出して波上のカモメを射撃。幕府の役人はそれを見ても何もできません。ただ遥か遠くから眺めるだけでした。
また浪士の一人が天祥院の使者とウソを言って、ある屋敷に放火して薩摩邸に逃げ込みました。幕府役人はこれを知っても追求しなかったのです。
またある日、関八州取締役の渋谷和四郎と言う者に
『お前たちは浪士組の同志を苦しめただろう』
と言いがかりをつけ、五、六人が彼の留守宅を襲い家族を殺傷したのです。役人たちはそれを知っても何もしません。
それはまさに無政府状態とも言うべき、治安悪化の有様でした。
こんな様子に薩摩邸浪士の名を借りて、強盗や人殺しをする悪党も沢山出てきました。いまから思うと徳川幕府の末路ははかないものでしたね。
慶応三年(1867)十二月二十三日。
とうとう江戸でも戦火が開かれました。益満休之助、伊牟田などの指令で、薩摩側が庄内藩の酒井家番所へ発砲したのがきっかけです。驚いた庄内藩はすぐに犯人の後を追わせたところ、その者は三田の薩摩屋敷に逃げ込んだのです。
そこで庄内藩主、酒井左衛門尉は烈火の如く怒り、夜中にもかかわらず急いで江戸城に登り、幕府閣僚にむかって
『すぐに薩摩屋敷の不逞浪士ら討伐の命令を!』
『それをやると江戸の町に戦火が及ぶ』
『もはや一刻の猶予もなりません。すぐ命令を!』
激論の結果、ついに薩摩屋敷の浪士を討ち払う命令が発しられたのでした。
一日おいて十二月二十五日、夜がまだ明けない頃に、庄内松山の藩兵約千名が二手に分かれて薩摩屋敷を取り囲みます。
薩摩邸ではかねてからこのことを予期していたとはいえ、早朝での不意に驚きました。まず邸内から使者を出して
『庄内藩番所に鉄砲を撃ち込んだ犯人が
こちらにいる?。何かの間違いでしょう。』
『いや確実な証拠があって申している。
即刻犯人を引き渡してほしい。』
『では当方でも調べてみるので少々猶予を
頂きたい。』
こんなやりとりがあったのですが、もとよりこれは薩摩の時間稼ぎです。朝の八時ごろ
『それッかかれッ!』
ついに談判は決裂し、吶喊の号令とともに戦いになりました。
「ドドーン!」「パーン、パーン」
大砲や小銃の響き、えいえいと切り結ぶ太刀の音、かけ合う弓声。門前はまたたく間に屍の山が築かれました。
西村謹吾さんらと私は、邸内の西北にある槍剣術稽古場あたりを守ってましたが、庄内藩が放った大砲の一弾がここに飛来しました。
「ヒュー」
という音を聞いた西村さんは、とっさに
『あぶないッ、伏せろ!』
と叫んで身を伏せました。これで私も助かりました。弾の先にに弾薬が集積されていたからです。
「ドドーン!」
この一発が薩摩側の勢いを削ぐことになりました。轟然と爆発した集積場はつぎつぎに誘導爆発を起こし、邸内はたちまち一面の火焔地獄と変わりました。しかし浪士側の人的損害は思ったより出ていません。
戻る 〔続く〕
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