鳥羽院さまはじめ、沢山の高位の方々からしばしば歌会や、
花見や紅葉の宴にも招かれ、皆様から可愛がられたのはよいの
ですが、そうなると出家へのふんぎりがなかなかつきません。
そんなある日の夕方、私は親友の佐藤左衛門尉憲康と連れ立
って御所を退出しました。彼が帰途に私に語ることには、
『私たちの祖先の藤原秀郷将軍が、東国を平定して
から長い間、天皇家の御守護役として御奉公して
きました。私たちもいまの鳥羽天皇の御寵愛を蒙り、
深く面目をほどこしています。それなのに最近は
どうしたことか、何事も夢まぼろしのように、はか
ない気分なのです。今日生きているかといって、
明日を待つことができると断言できない。ああ何か
頼みとするものがないものでしょうか、いっそ家も
御奉公も捨てて山に篭りたい気分です。』
という。私もそれを聞いて
『いまさら君がこんな話をするのは、何かわけが
あるのですか?』
と問いかけたところ、彼は
『明日の朝は早くからの勤務ですが、どうか朝に私の
屋敷に寄って誘ってください。そのときまたゆっくり
お話しましょう。』
というのです。翌朝私は彼と一緒に出勤しようと、七条大宮の
屋敷に立ち寄ってみると、門のそばに大勢の人がいます。また
屋敷の中でも、さまざまな悲しみの声が聞こえるではありませ
んか。どうも変だと思って急いで近ずいてみると
『殿は昨夜、寝たままで亡くなられました。』
と十九になる妻や七十才の母が、遺体の枕元で泣き悲しんでい
るではありませんか。これを見て私も目の前が真っ暗になり、
「彼はこうなることを知って、現世のはかなさを語った
のだろう」
と、いまさらのように感じたのでした。
世をいとふ名をだにもさはとどめおきて
数ならぬ身の思ひ出にせむ
私は親友の突然の死をきっかけとしてに生かし、絶対に無駄
にしないと決意しました。こうして私は出家を強く決意しまし
た。せめて世を厭うて出家したという、その噂だけでも現世に
止めておき、取るに足らない私の思い出にしたいと思い、この
歌を詠んだのです。
こうして翌日に鳥羽離宮に参内しました。院はちょうど管弦
の遊びをされていました。私は頭弁殿を介して出家の暇乞いを
奏上しましたところ、
『これは心外である』
との御意が伝えられました。しかし
「いまここで出家を思い止まったなら、恩愛の道を
止めて世俗への執着を断ち切った釈迦如来の教えに
も劣ることになる。」
と、心を鬼にして鳥羽離宮を後にしたのでした。
惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは
身を捨ててこそ身をも助けめ
鳥羽離宮を振り返りながら詠みました。いくら惜しんでも
惜しみ通すことができない現世、いっそのこと世を捨て出家し
てこの身を助けようと思う。そんな意がにじみ出ているでしょ
う。
こうして私は一昨年の保延六年(1140)の十月十五日に剃髪し
出家したのです。さる高僧から西行という法名を頂きました。
私が出家した原因について、人々はいろいろ噂しているよう
ですね。やれ一般厭世だとか、失恋したのだろうとか、何か
政治向きのことだろうとか。いやいやこれらの総合だろうと
か。人は興味半分に詮索するものです。本当の原因は私だけが
判っておればよい、そういうことではありませんか…。
さて世を捨てて出家したけれど、別段人目を避けて生活して
いるわけでもない。いまも現世にあると同じようなものです。
一体これでよいのでしょうか、出家しても悩みは残ります。
捨てたれどかくれて住まぬ人になれば
なお世にあるに似たるなりけり
世の中を捨てて捨て得ぬ心地して
都離れぬ我が身なりけり
こうして出家した当座は、東山や鞍馬の山奥に庵の生活をお
くっていましたが、さらに発心してこの地を離れることにした
のです。
こうして私は旅に出ました。いまこの鈴鹿峠を越えることが、
私の新しい生き方の出発点になると思っているのです。
鈴鹿山うき世をよそにふり捨てて
いかになりゆくわが身なるらむ
現世のしがらみを振り切って、いま鈴鹿峠を越えようとして
いるのですが、この先はいったいどうのような運命が待って
いるのでしょうか…。決意と不安と複雑に交錯する私の気持ち
を率直に詠ったつもりです。
いや…、長いこと自分のことばかりおしゃべりしてすみません。
これはまだ浮世に未練がある証拠でしょう。まだまだ修行が足
りませんね。
ちょうど汗も引き足の疲れもとれました。もう少し頑張って
歩き、今夜は関宿で泊まろうと思います。貴方は土山へいらっ
しゃるのですか。どうぞ道中お気をつけて旅を楽しんでくださ
い。失礼します。
戻る (終り)
参考文献 西行法師〔山家集〕 正保三年版〔西行物語〕
井上靖〔西行さすらいの歌人〕
|