梅雨末期とあって、亀山城下の人々は蒸し暑く寝苦しい夜を
過ごしていた。午前二時を過ぎるころ、突然
“ドーん”
家の下から突き上げるような大きな振動に、人々は飛び起きた。
“メリメリッ!”
つぎの瞬間、天井から埃が落ちると壁が崩れはじめた。
「何が起きたのだ!」
訳がわからない。家の外に飛び出そうにも、あまりにも振動が
大きくて足が前に出ない。
“これは大地震だ!”
幾度も地震を経験している人々はすぐ直感した。これまでの
地震は比較的長い横揺れだったのに、今回の地震は下から突き
上げる感じである。どうも震源地はすぐ近い直下型のものらし
い。あちらこちらから
『がらがらッツ!メリッメリッ!』
と家屋や塀の倒壊する気配がする。
しばらくして揺れが少なくなった。しかし今度は雨がひどく
降ってきた。それにゴロゴロッと雷鳴まで加わっている。
“ゆっさゆっさ”
ひっきりなしに余震がやってくる。外は真っ暗だ。恐怖に慄き
ながら、人々はまんじりともせず、夜が明けるのをひたすら待
った。
この地震は安政元年(1854)六月十五日、午前二時ごろ発生し
た「安政伊賀地震」と呼ばれるものだった。
のちに学者が調査した結果によると、震源地は伊賀上野盆地
を中心とした本震と、これに相前後して四日市を含む地域で、
桑名四日市断層の活動による地震が発生したと推定された。
マグニチュードは6. 7であった。津、亀山、桑名で震度6強。
伊賀上野と四日市で震度7という未曾有の大地震であった。
亀山歴史博物館所蔵の天野家文書によれば
「六月十五日、陰晴、大震後 夕方雷鳴小雨、
毎々地震数不相知」
とある。そして藩主、石川総和の指示でさっそく被害状況の
把握と調査が行われた。その日の夜までに判明した被害は想像
を絶するものだった。いまに残る天野儀太夫の日記からそれが
よくわかる。
一、今暁午前二時ごろ地震甚だしく御城向かい大破、神戸櫓
大破、護摩堂、石坂門櫓は丸倒れ、大手門櫓の御門鉄砲櫓
と石坂御門の石垣、その列の石垣類は所々に大きな破損が
出来た。私の屋敷では座敷あたりから台所、茶の間柱が斜
めにねじれた。台所の間の壁はところどころ抜け落ちた。
風呂場も大破し、東側の練塀は残らず崩れてしまった。
その他、藩士家中では屋敷や塀が損壊したり倒れた。
家は無く長屋向いは少し倒れた。太鼓櫓も倒れた。この
太鼓打ちの中間が一人即死し、一人はかなりの重傷である。
大きな地震の後も余震がひどく、止む様子もない。
まことに前代未聞の大地震である。
一、南の裏の築山に二箇所ほど仮小屋を作って避難生活をした。
一、町家も倒れ鍋屋町では即死が二名でた。
一、郊外の郷廻りや商店の表通り、そして亀山藩領の分境まで
被害調査をおこなったところ、庄野宿は倒壊家屋が多数あ
り、即死者は二十七名。石薬師宿は不明、四日市宿は六分
どうり倒壊し死人も出た様子である。ところどころから火
も出たが、いまは消しとめられた。関宿は倒れた家は無い。
坂下宿も倒壊家屋なし。近江土山宿は被害多く死人も出た
らしい。亀山藩領内の詳しい被害は判明次第報告する。
以上が地震直後に亀山藩から幕府に届けられた被害報告である。
それから一週間ほど後、詳細な亀山藩領内の被害状況が判明
した。それはまったく言葉に尽くせないものだった。
六月二十七日付けで幕府に提出された報告の一部を紹介する。
一、神社で三十二ケ所が全壊、四十九ケ所が半壊
一、寺院本堂庫裏関係では全壊三十六、半壊百四
一、寺院の山門は二十九が全壊、五ケ所が半壊
一、寺院の鐘突堂は十一が全壊
一、神社の社屋は六軒が半壊
一、町家は全壊が四十八戸、半壊が三十六戸
一、農家は全壊二百七十一戸、半壊九百三十九戸
一、土蔵は八十六棟が全壊、三百二棟が半壊
一、物置小屋は六百八十が全壊、壱千四棟が半壊
一、怪我人は男が二十八人、女が二十二人
一、死者は男四人、女二十二人
そして田畑など五十八町歩が荒れ、土手も八百七十間崩落し
た。堰の破壊も八十二もあり、水門破損が六十八、塀が壱千二
百ほど。石垣は三百ケ所が落破。池は九十六、山崩れは千六百
ケ所、作道は五百五十ほど崩落し、堤防は三千余も破損した。
井戸も一万も破損、橋も百二十も落下した。
この安政伊賀地震の死者は伊賀と伊勢、近江の全部で八百人
余にのぼったといわれる。なんとも凄惨な被害状況である。
最もいまほど建造物も土木技術も耐震工法がなかった時代なの
で、地震に弱かったのは事実だろうが、不意を突かれた直下型の
大地震では、どうしようもなかったのが実態であろう。
伊勢国はあらゆる形の地震が起きる場所である。それは
この国の沿岸近くに南海トラフがあり、このプレートの活動に
よって地震が起きる。
南海トラフの西で起きる地震は「南海地震」、東で起きるの
を「東海地震」と呼ばれる。両方の地震は百年から百五十年お
きに発生し、それも大規模なものが想定されている。
また悪いことに両方の地震がお互いに関連し、ほぼ同時に引
き起こることである。いま東海地震の研究者たちや政府機関も
東海地震から一歩進め、東南海地震として対策を関連させて
いる。
この安政伊賀地震の六月十五日のあとの「安政東海地震」で
は安政元年(1854)十一月四日に発生し、そのあとすぐに
「安政南海地震」が十一月五日と七日に起きている。
明治二十四年の濃尾大地震では大きな被害もでた。
昭和に入ってからも、昭和十九年(1944)十二月七日の東南海
地震、昭和二十年一月十三日の三河地震、昭和二十一年十二月
二十一日には南海地震が起こり、熊野灘や駿河湾など、沿岸地
方に大きな津波被害をもたらした。
私(厚顔)は昭和十九年の東南海地震のときは亀山小学校の
六年生だった。ちょうど体操の時間でクラス全員が校庭に出て
体操をしているとき
”ゴオーッ”
と遠雷のような地響きがしてきた。それが遠く長く続いていた
が、やがて足元からゆっくりと揺れが始まった。その揺れがだ
んだんと大きく、やがて
”ギシギシッ!、めりめりッ”
あちこちで物が倒れる音がする。足を踏ん張っても立っておれ
ない。とうとう地面に這いつくばってしまった。
そしてふっと校舎を見ると、木造二階建の校舎がゆっさゆっ
さと左右にものすごく揺れ、いまにも倒壊するのでは…と恐怖
が頭を走った。そこには我ら以外の多くの学童が勉強していた
からである。
校庭正面では担任のY先生が木台の上に登り、体操の指揮を
とっていたのだが、この揺れのなかでも台から下りることなく、
揺れが止まるまで台上で頑張っておられたのに感心した。
その頭上から国旗掲揚のポール上のガラス玉が落下し、先生を
直撃したのだが、間一髪それを避けられた。それはいまもはっ
きりと覚えている。
このときすぐ隣の亀山神社の石燈篭は全部倒壊した。
家に帰る途中の道路には無数の亀裂が入っていた。田圃の土手
はヒビが入って水が漏れ、農家の肥溜めから肥えが飛び出し、
あたりはその強烈な匂いがただよっていた。
また翌日は風邪を引いて学校を休み、家で寝ていたのだが、
数分おきにメリメリッ、ゆらゆらッと大きいのや小さい余震が
続き、そのたびに裏の竹薮まで走って避難を繰り返した。
もうゆっくりと寝ていることもできず、地震を大いに恨んだこ
とを覚えている。
この地震の規模はM8.0。死者行方不明者は千二百余人もでた。
昭和二十年一月十三日の三河地震は深夜だった。
この地震では前記の東南海地震の経験があったので、比較的
安心して対処できた。しかし戦争末期で連日連夜の米軍機の
爆撃襲来で寝不足であり、学校の授業でも眠くて仕方がなか
った。
そんなときの地震である。このときは布団を沢山持ち出し、
裏の竹薮に筵を引き布団を被ってそのまま眠りこけていた。
三河の西尾市あたりが震源地だったようだが、戦争末期で軍事
上機密扱いとされたので、詳しい被害状況はいまも定かではな
い。
昭和二十一年十二月二十一日の南海地震の記憶はもう薄れた
が、のちに就職したとき、志摩や尾鷲の出身者と一緒になった
が、彼らはこの地震とすぐ後にやってきた大津波のことを、
ものすごい恐怖の表情で語っていた。
彼らのほとんどは肉親や親戚、友人を津波で失っていた。
M7.1の規模で死者行方不明が二千三百人、怪我人は三千八百余
人にものぼった。
このほか近世、江戸時代後半以後の大地震は
宝永四年(1707) 十月四日 宝永地震 死者四万
弘化四年(1847) 三月二十四日 善光寺地震 犠牲者多数
安政元年(1855) 十一月四−七日 安政大地震 三万
明治二十四年(1891)十月二十八日 濃尾大地震 八千
明治二十七年(1894)十月二十二日 庄内地震 八百
明治二十九年(1896)六月十五日 三陸沖地震 千六百
大正十二年(1923)九月一日 関東大震災 多数
昭和八年 (1933)三月三日 三陸沖地震 多数
昭和十九年(1944十二月七日 東南海地震 多数
昭和二十年(1945)一月十三日 三河地震 多数
昭和二一年(1946)十二月二一日 南海地震 千三百
昭和二三年(1948)六月二八日 福井地震 三千八百
平成七年(1995) 一月十七日 阪神淡路大震災 多数
などがある。
阪神淡路大震災の惨状については、まだ記憶が新しいままで
あるが、犠牲者や建物倒壊などが少ない規模の地震は、ほとん
ど毎年のようにどこかで発生している。
東海と南海の大地震は安政元年(1854)の大地震からすでに
百五十年も経過しており、地震エネルギーは完全に蓄積が終
わっていて、いつ地震が発生してもおかしくない状況にある。
国の被害想定では犠牲者は一万人以上、経済的損失は三十七
兆円以上、避難者数は二百万人、五百万人以上がライフライン
に支障をきたすとされる。亀山地方の震度は六以上あると覚悟
する必要がある。熊野灘沿岸地方の津波は五メートル以上、
志摩の大王町あたりは九メートルに達するとのことである。
三重県はわが国有数の地震地帯である。日ごろから地震対策
をしっかりと行い、用心をするに越したことはない。
〔終り〕
参考文献 亀山歴史博物館所蔵〔天野家文書〕
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