亀山には由緒ある社がいくつか存在します。野村の忍山神社
[オシヤマジンジャ)もその一つです。社は野村町の丘陵地を南方に下り、
国道一号を渡ってしばらくいったところにあります。
その先の鈴鹿川は、昔はくねくねと蛇行し、野尻や野村の
低地のあちこちに湿地を作り、川の本流もこの社の前を流れてい
たようです。もちろん野鳥や獣の天国でしたから、弥生人たちが
住み着いたのは当然のことです。社の近くの忍山遺跡からは土器
や須恵器、鏃が多数出土してますし、御姫塚という古墳の存在が
それを証明しています。
いま伊勢神宮は伊勢の五十鈴川を遡った神域にあり、天照大神
は御霊は社殿の奥に鎮座せられてます。実はこの地に落ち着くま
では大変な御苦労がありました。第十代崇神天皇までは天照大神
は宮中に祀られていたのです。ところが神威があまりにも強いと
いうことで、別の地に祀られることになりました。そこで十一代
の崇仁天皇の命を受け、豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)は天照大神
を鎮座させる土地を探す旅に出ました。入姫命は五十二年間奉仕
されましたが、老齢のため姪の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)にバトンタッチ
されたのです。この倭姫命は英雄ヤマトタケルの叔母にあたる方
です。
倭姫命は天照大神の御霊を奉じて、大和から近江、美濃、伊勢
と御遷座の土地を探して何年間も旅をされ、最後にたどり着いた
のがいまの五十鈴川の地なのです。
そのとき倭姫命は美濃の伊久良宮で国造や県主から舟を二隻献
上され、ここから揖斐川を下って桑名の野代宮に上陸しました。
当時はこのあたりまで海が入り込んでいたと考えられています。
そしてここから御衣野(ミソノ)、古浜、笹尾、鳥取、北大社、
南大社、下村などと現在の員弁市の土地を通り、三滝川沿いに上
っていき、いまの湯ノ山駅西あたりで仮屯宮を設営されたと想像
されます。この屯宮跡の伝承は近年まで残されていました。
いま御在所岳の名前はこのときの仮行宮、すなわち御在所から
きたと云われてます。
菰野からは宿野峠を越えて鈴鹿市の伊船にはいり、川崎、岩森、
椿世と亀山市の地域に入られたようです。そして野村町の地に
到着し、仮屯宮を設営されたのが鈴鹿の小山ノ宮、すなわち忍山
神社のある土地でした。倭姫命はこの地に半年間滞在されたとい
われます。ところがこの小山ノ宮は野尻町の布気皇舘神社のほう
だという学者もいます。別の学者は野村町の東北にある愛宕山に
かって古い社があり、それが鈴鹿の小山の宮だった。そしてのち
に現在地に移ったと云いますが、私にはいまの忍山神社が一番ふ
さわしいと思います。
このあたりでは布気神社をフケと呼び、忍山神社はオシヤマと
不思議な呼び方をされてますが、
『忍の字は万葉の時代ごろまではオシとかオサとか
読んでおり、それを略して小山すなわちオヤマとなった。』
とある学者は主張します。たしかに万葉集にもそのように読む例
があるようですから、そのとうりかも知れません。
古い「倭姫命世記」に記載された話。
倭姫姫が鈴鹿の小山宮に至ったとき、土地の豪族で川俣県造
の遠祖、大比古命が召しだされた。そして
『汝の国の名を何と云うのか?』
答えていわく
『ここは鈴鹿郡、神戸郷の忍山です』
そして彼は直ちに神田と神戸を倭姫命に献上し協力を誓いまし
た。古代の神戸郷の場所ははっきりしていませんが、昔からずっ
と野尻、落針、大綱寺、山下、木下、小野、野村の七郷と考えら
れ、しかも野尻は七郷を束ねる立場だったそうですから、この地
に鎮座する忍山神社は昔の小山宮でしょう。もっとも皇舘布気神社
の皇舘とは、大比古命が献上した七郷を示すとも云われますから、
忍山とは違うという人もいますが…。
またこの地が神山であり、これから亀山の地名が生まれたとい
う説があります。
倭姫命は半年間の滞在の後、津市藤方森田にある片樋宮
(加良比乃神社)にむけて出発されました。その途中、関町の古厩
には馬を留め休息された「御厩の松」が今も残されています。
こうして倭姫命は非常な御苦労の末、無事に五十鈴川上流に天照
大神の御霊を鎮座することが出来ました。
ところが倭姫命の兄、景行天皇は我が子のヤマトタケルにむかい
『東国の賊を討って平定させよ。』
と命を下します。中国山陰地方や九州薩摩などの賊を息つく間もな
く、つぎつぎに平定したヤマトタケル。
矢継ぎ早の命令に疲れていましたが、父天皇の命令には武人とし
て従わなければなりません。彼は伊勢五十鈴川に赴き、天照大神に
必勝の祈願をしました。そしてつい弱気となって
『父天皇はどうして私ばかり苦しめるのでしょうか、
私に死ねと思っておられるのでしょう。』
と倭姫命にこぼします。そのときこの叔母は一振りの剣と御袋をを
授けて
『貴方なら大丈夫。この剣を身につけて頑張りなさい。
また火急のときは袋の口を開きなさい。』
と激励しました。この剣が草薙の剣です。これはあの剛勇スサノオ
ノミコトが、ヤマタノオロチを滅ぼしたとき得た剣です。
そしてヤマトタケルは忍山神社の祀官だった忍山宿祢(オシヤマノスクネ)
の娘、弟橘姫(オトタチバナヒメ)を娶って東へ出発します。
父もこの娘とヤマトタケルの一行に加わり、尾張、東国へ旅をし
ていきました。そしてヤマトタケルは尾張から駿河にいきます。
その地では賊のため火難に出合いますが、御袋の口を開けて逆風を
呼び起こし、剣で枯れ草を薙ぎ払って難を逃れます。
こうして苦難の末に彼と軍勢は相模国三浦から木更津へむかい、
走水の海を渡ろうと船に乗ります。ところが海の中ほどで突如暴風
にあいます。それは海の神の怒りに振れた為に大嵐が巻き起こった
のです。弟橘姫は自分の身を海の神に捧げ、神の怒りを鎮めようと
決心しました。
さねさし相模の小野に燃ゆる火の
火中に立ちて問ひし君はも (古事記)
“あの燃えさかる野中の火の中でも、
私の身を気遣って問いかけて下さった貴方よ”
弟橘姫が最後に詠んだヤマトタケルへの愛の歌です。
こうして七日ほど経ったとき、浜辺に姫の櫛が漂着しました。
タケルは御稜を築いて櫛を葬りました。これがいまの走水神社だと
いわれます。しかし本当は櫛はそのまま海を流れ、遠州灘を過ぎ
て尾張まで流れていったという伝説もあります。
こうして苦難の末に関東、陸奥の遠征を終えて帰りました。
足柄峠を越えたヤマトタケルは東国を振り返り
『吾妻(アズマ)はや…』(わが妻よ)
と三度も呼びかけたといわれます。東国をアズマというのはこの
故事からきています。
なお娘と同行した父の忍山宿祢は、海路で尾張国に凱旋しました
が、弟橘姫の櫛が父の後を追い、尾張国知多郡緒川の紅葉川を遡っ
て緒川宮に漂着したというのです。父は娘の櫛を拾って号泣し、
これを奉じたのが愛知県知多郡東浦町緒川にある入海神社といわれ、
境内には弟橘姫の辞世の歌碑が建立されています。
伝説では忍山宿祢命は伊勢国物部氏であり、朝廷から伊勢を経て
知多半島に派遣されていたと思われます。
また忍山神社は古くは白髪大明神とも呼ばれ、神社の縁起では
文明四年(1472)に戦火にあった社殿が焼失。その後も永禄年間には
信長の兵火を避け、御神体を白木山に避難したとあります。
このころはもっとも荒廃した時代でしょう。
江戸時代になると亀山藩主板倉勝澄の保護を受け、本社拝殿や
鳥居の造営が行われました。また石川家も社領として田畑を献上し
ています。
明治になると村社になり明治四十一年に多くの神社を合祀し、
現在にいたりました。いまは猿田彦命、天照大御神、倭姫命、など
二十数神が祀られています。
甜酒祭という例大祭は十月十四日です。
この年の新穀で甜酒を醸造し神前に供えます。また傘鉾も祀事の一つです。これはスサノオノミコトの御霊を慰めるため、古くから
行われています。これは大竹で直径一米半、高さ四米の大きな傘を対で二個作り、それに五色の紙を貼って飾りつけます。
そして先端に御幣を取り付ける。祭礼当日は青年に護持された傘鉾を先頭に、神官や氏子が太鼓を鳴らして続き、町内を練り歩きます。
そして鉾の御幣半色紙を奪いあってとります。その紙片を神棚に供えて一年の無事息災を祈るのです。
参考文献 「倭姫命世記」、「九九五集」、「三国地志」
「亀山地方郷土史」
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