東海道の昔の話(117)
    菅茶山と関の宿 1  愛知厚顔  2004/9/1 投稿
 


  “関で泊まるなら鶴屋か玉屋
      またも泊まるなら会津屋か“
 
 東海道を行き交う旅人が耳にする土地の偶謡だが、いずれも関では評判の知られた旅宿である。その脇本陣の鶴屋に今日は五人の男が泊まった。彼らの生国はそれぞれ違うらしく、見事なお国言葉が飛び交っている。
  『先生。御身体は大丈夫ですか?今日はかなり旅程が
   きつかったと思って心配でしたが…』
  『いやいや大丈夫、今日はこの孫福内蔵さんと楽しく
   連れ立っての旅です。お蔭さんで鈴鹿峠も楽に越え
   てこれたんよ。』
孫福内臓と呼ばれた男は
  『私は仕事で西国に出かけていました。備後から
   先生とご一緒させて頂き、伊勢に帰るところです。』
 彼の本職は伊勢神宮の神職で御師と呼ばれる仕事である。
これは全国各地に出かけていき、伊勢参拝旅行の宣伝と客の誘致をやっていた。
 老人は言葉を継いで
  『それにしてもわざわざ出迎えを頂き、韓聯玉さん、
   子文さんに心から感謝します。本当に久しぶりやね。』  

 先生と呼ばれた男は備後訛りで、年のころは六十歳をとうに越えた白髪の老人である。彼に話しかけたのは日焼けした浅黒い肌の若い男である。
  『先生、ここはもう伊勢の国です。この関の追分
   から参宮街道をたどれば伊勢神宮まで二日か
   三日ですよ。』
  『そうそう韓聯玉君、君の実家は宇治山田やったね。
   一度ゆっくり伊勢にもお参りしたいもんやが
   なかなか機会がない、そのときはお世話になるね。』
韓聯玉という名はいかにも中国人のようだが、これは彼の号であり、字名は文亮で本名は山口凹巷と云うれっきとした日本人である。
 このとき年令は二十四才だった。 
  『はい、私の家は廉塾の北条霞亭とほんのすぐ近く
   です。彼は志摩の的矢ですから…、彼とは宇治山田で
   漢詩同人の山田詩社では同門でした。』
  『そう霞亭君も今頃どうしてんかなあ。あの廉塾で
   塾生をうまく教えてるんやろか』
この廉塾という塾はこの老人が備後福山に開校した塾である。
開校当時は私塾だったが、いまは福山藩の藩校になっていた。
  『先生、もう福山が恋しくなりましたか、霞亭は伊勢の
   頃から抜群の学識で若者を教えてます。彼にまかして
   おけば安心です。』
  『そうやね、それに頼山陽君もいることやし。』
酒がまだ入らないこともあり、少し流れる空気が重い。

  『先生、じつは北条霞亭君は京都からここへくる
   手筈になってます。そのうち来るでしょう。
   そろそろ漢詩を詠みあいませんか。』
  『福山に戻ったと思ったが、京から志摩に帰省する
   つもりかいな…それは良いことや、どうも旅も長
   くなると心も湿るな、詩でも詠もうかハッハ。』
先生は振分け籠から紙と筆を取り出した。それを見てほかの男たちも作詩の準備を始めた。

 先生と呼ばれた老人の名は菅茶山。文化十一年(1814)の今年は六十七才になる。彼は備後福山藩主の阿部家に、儒学者として五人扶持で召抱えられている。彼は儒学者としても有名だが〔漢詩人〕として当代随一の評判を得ていた。
 過去に日本において漢詩は大体、三つの時代変革を経験し発展を遂げている。第一は平安時代の宮廷の官吏たちによる変革。つぎの第二は鎌倉から室町時代の京都五山の僧侶たちによる変革。そして第三は江戸時代の儒学者たちによる変革である。
 この江戸期のはじめ、作詩は儒学者たちの単なる趣味で始まったのだが、正徳、享保のころ(18世紀)の初めに漢詩はにわかに活気を帯びてきた。服部南郭や祇園南海らが唐詩の模倣をしてスタートし、天明、寛政のころには唐詩から宗詩へ真似が移った。
 これは詩の表現が現実的写実的、そして叙述的となり、自分の日常生活とその環境を詩に詠じ、自分の主張をとり入れるようになった。その先駆者が六如上人や菅茶山である。
菅茶山の出現で天明から文化文政年間にいたる約五十年は、漢詩がはじめて日本人の感情、生活の表現に成功した画期的なころであった。これは文化精紳史からみても大きな転換点でもある。
 文化十一年の五月、蒸し暑い季節だった。このときの旅は福山藩主、阿部正精の命で江戸藩邸に向かう途中であった。

  『先生、私の友人の河崎敬軒とはすでに文通されて
   いると存じますが、彼の詩の筋はいかがなもの
   でしょうか?ぜひと先生のご指導を求めています。』
と別の男が茶山に聞く。
  『子文さんもいい友を持ってるんやね。河崎敬軒
   さんも手紙を頂くたびに必ず詩が入っており、
   感想や添削を希望されてる。熱心な人です。』
子文とは佐藤子文という。彼も同じ山田詩社で山口凹巷と同じだったし、京都に遊学した仲間でもある。
子文は自分のことはあまりしゃべらない。誰も彼の詳しい略歴を知っていない。
 だが茶山はこの佐藤子文も最も愛した弟子の一人だった。
  『先日も河崎敬軒さんから、ぜひお眼にかかって直接
   指導を受けたいと手紙を頂きました。今日この宿に
   泊まることが前もってはっきり判っておれば連絡
   できたのに…急だったので残念でした。』  
 山口凹巷や北条霞亭はすでに茶山に入門していたが。同じ宇治山田出身の河崎敬軒という儒学者も、菅茶山の教えを熱心に乞い願っていた。山口と霞亭らはいずれも宇治山田の山田詩社の同人だが、かって京都の皆川洪園に学び、漢詩を菅茶山に学んだ仲間である。その縁で河崎敬軒も茶山に引き合わせたいと思っていた。しかし何か用事があってこの日に対面は無理だった。
 結局、河崎敬軒が始めて茶山と対面したのは、翌年の文化十二年(1815)、茶山が江戸から福山へ帰る旅のときであり、 今夜の鶴屋にはまだ彼の顔はなかった。 

 菅茶山は
  『きょう、この孫福内蔵さんと鈴鹿峠を越えるとき、
   こんなものを詠んでみました。
  
     鈴鹿山また朝霧のかかれはや
         坂の桜散らずもあらなむ
        
   出来栄えはいかが、ハッハ』
歌を認めた紙を皆に見せて感想を求めた。
  『先生、正直に申し上げて、どうも先生の和歌は
   頂けませんね。これはまっすぐに峠での春の景色
   を、そのまま詠っただけじゃないですか…。
   やはり先生は漢詩の世界で表現して貰わない
   とダメでしょう。』
佐藤子文は遠慮のない批評を下した。我が子と同じぐらいの
年令の子文が昂揚して話す。茶山はそれをいとおしく見な
がら
  『子文さんは相変わらずきついこと云われるんね。
   韓聯玉の山口凹巷さん、子文さん。今日は久しぶり
   にお二人とお会いできました。しかしすぐお別れ
   が待ってます。再会の楽しさもさりながら、
   この別れの辛さ…、
   私のような老人は胸が破れるかも知れません。
   まあ今夜は別れのことは考えないことにしよ。』
茶山は地酒を盃に受け飲み干す。
  『うまい酒やね。どこのもの?』
  『これが伊勢山田の名物地酒、白鷹ですよ』
佐藤子文と山口凹巷は恩師に飲ませたいため、伊勢山田からはるばる携えてきたものだった。茶山はそれを知ると涙をそっと拭い
  『お伊勢さんに献上する酒が頂けるとは…、
   ありがたいこと、粗末には飲めんなあ。』
と盃を置き筆をとった。さらさらと一編の詩を書いた。

長路故来縁恋友 長路ことさらに来る友を恋うるにより
帰期無滞為思親 帰期滞りなきは親を思うがためなり

  『なるほど、先生のお気持ちを私どもは深く
   心に留めておきます。』
二人の若い弟子も涙が溢れそうになるのを堪えている。
 
 このところ菅茶山は、自分が開校した廉塾の行方を心配していた。彼は藩主の覚えも目出度くなり、儒学と漢詩では日本中に知られる存在である。
 いまや塾の経営に没頭できる立場ではなかった。
そこで堅実な人材を塾頭に探していた。その候補の的を北条霞亭に絞って説得していたのだが、なかなか色よい返事がない。そこで霞亭の同郷で親友の佐藤子文に応援を期待したらしい。
 しかし案ずることはなかった。のちに茶山の最有力な弟子だった頼山陽が北条霞亭を説得し、福山藩校廉塾運営の塾頭として責任者に据えてしまった。

  『茶山先生はかなりの食通でしたね。それに油こく
   味の濃いものがお好きのようだ。この宿は鈴鹿川
   でとれるウナギ料理が名物です。ぜひ賞味して
   ください。』
子文はそう云いって、ウナギのほかにスッポンも注文した。
また
  『ここはまた伊勢茶の良いのが採れます。』
という。それは京都の茶にまったく似てない。しかし濃く出せば田舎むきのお茶漬けによく合うという。子文はそれも注文して出させた。
 久しぶりの再会を祝し、楽しい詩作と宴が延々と続く。
 そして外が白くなりはじめるころ、ようやく五人は眠りについたのである。 

 翌日は快晴、蒸し暑さは残っていたが、今日は久しぶりに晴れた。五人は青い空を見上げ
  『とうとう北条霞亭君は間に合わなかったようやな。
   いいわ、またすぐ逢えるわ。』
菅茶山主従と孫福内蔵の三人は江戸へ向かうが、佐藤子文と韓聯玉こと山口凹巷の二人は、関から参宮街道へと入るのが近い。しかしどうしてもこのまま別れるのには未練が残る。
宿を出る直前まで迷っていたのだが、
  『菅先生、どうか四日市まで送らせてください。』
結局、佐藤子文は菅茶山に同行し四日市まで下ることになった。画像は「関宿の鶴屋」

   亀山駅過    亀山駅を過ぎる
 数両軽輿断続声  数両の軽輿から断続の声す
 暫時忘却客中情  暫時、忘却す客中の情

茶山の詠んだ詩、駕籠と駕籠の間の楽しい会話が弾んでいる様子がよくうかがえる。

            (続く)

 
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