延享元年(1744)春の三月一日だった。
亀山藩主、板倉周防守勝澄に対し幕府から
『備中松山(岡山県高梁市)に移封を命ず。』
と命令がくだった。その通知を受け取った亀山城はたちまち
大騒ぎになった。板倉家が前の治世者、松平和泉守乗邑から
板倉重治が亀山藩を引き継いだのが享保二年。いまは長子の
板倉勝澄が治世を担当していたが、まだわずかしか経ていない。
亀山の土着人になるにはまだ少し早い。しかし人一倍この
地に愛着がある。できればずっとこの地にいたい。しかし幕命
には逆らえない。
『城内はもとより城下の藩屋敷も明け渡す準備せよ。』
重役たちはさっそく指示を発し、まず藩士の居住邸宅の現状を
調査した。
それによると城の東の東丸には年寄で五百石、大石忠左衛門。
同じく五百石、井上権兵衛。近習頭で四百石、桑野忠兵衛。
そして四百石、尾崎又兵衛らの四軒がある。
また江ケ室には百五十石から二百石級の田中十兵衛、星野一郎太夫、
石川喜内ら十五軒。同じく江ケ室袋町には十一軒、東台には五十石
級の侍屋敷が二十五軒。もっとも大きな屋敷を構えていたのは
千三百石の家老、板倉杢右衛門で西之丸にあった。
そして徒士足軽たちは稲荷前、若山、北山、北野などに百三十余
軒と集中している。これらの総合計は三百六十二軒にもなり、家族
や雇い人を合算すると約二千百余人にもなる。それに移動には家財
什器など膨大な量になる。
『これは大変な事になるぞ!…』
藩主はじめ重役たちは、いまさらながら移封という大事業に驚いた。
さながら民族の大移動である。
また同じ日に板倉周防守勝澄に代わって、入ってくる藩主が
石川主殿頭総慶と判明する。それも移封先の備中松山(岡山県高梁市)
との国替え相互交代である。この移動の大変さは板倉家と同様である。
『万事粗相のないよう板倉家に引継ぎをせねばならぬ。』
主君と家臣たちは毎日が眼の回るようであった。
幕府からの命令で石川家の領有はつぎのように定められた。
伊勢国鈴鹿郡の大半の村、
三重郡の堂ケ山、川島など四ケ村。
河曲郡の竹野、南若松、岸岡、三日市など八ケ村。
以上、伊勢国で約五万石となる。
備中国阿賀郡の上中津井村、下中津井村、平田村。
備中国上房郡の上村、中村、下村、里村など八ケ村。
約一万石になり、総合計は六万石余となる。
この備中の飛び地一万石には亀山藩の代官屋敷が置かれることに
なる。
また石川総慶は備中松山藩主のとき、催合米という所得税を腑課
していたが、このたびの移封に際して扶持米取りの割合に応じ、
その税を減免して祝儀とした。
そして四月に入ると双方から引継ぎの役人を若干派遣し、国替え
作業が支障のないよう引継ぎ調整にあたった。松山の石川家は亀山
への御所替えに際し、まず亀山城の請け取り先行担当係を任命した。
責任者として用人、名川六郎右衛門、加藤斎院など十六人
藩旗担当 天野藤内
鉄砲と弾薬 久米武太夫、鳥山六郎左衛門
弓と矢 細木甚五兵衛
町奉行 長尾九太夫
大目付 山田源右衛門
奉行 香取半右衛門
ほかに上使の接待役や道中の宿割り担務、火の番などである。
亀山城では諸品の請け取り確認担当として
武具 水島源之丞、須山安右衛門
御城米 板倉野右衛門、徳田與十郎ほか一人
町方帳面 雨宮水右衛門ほか三人
城内絵地図 山田源右衛門ら四名
長屋図面など 加藤伝五右衛門ら二名
そのほか 三名
亀山に先行派遣された人数は合計八十数名にのぼった。
また備中松山城で板倉勝澄主従を待ちうけ、城引渡しをする者と
して
責任者、 石川伊織、名川丹下、佐治善左衛門ほか十六人
旗、鉄砲、弓など 稲富傳右衛門、宮地庄左衛門など十名
町奉行、大目付 市川作右衛門など三名
このほかに上使馳走人、火の番、屋敷改め、帳面引継ぎ、作事書道具
相渡しなどに八十数人を置いて待ち受ける。
また移動引越しの道中の旅で粗相のないよう〔掟〕を定め、石川家中
に周知徹底をはかった。
一、このたびの所替えで伊勢亀山へ引越しに際しては、諸事公儀
御法度を守ること、りみだりに他行を禁止する。
一、通行中は勝手に下馬したり喧嘩口論など無礼な行いを固く禁止する。
一、道中旅での賭博、勝負事あるいは好色は禁止
一、責任者(家老)からの指図は絶対に守るべきこと。
一、道中の宿では火気に厳重に注意のこと。
一、宿賃の支払いで揉め事のないようにすること。
一、宿、馬子、日雇い人に対し殴打などの行為を禁じる。
大人数での長旅道中では何が起こるかも知れない。万全を期すること
が必要であり、きめ細かい掟を定めて皆の注意を喚起させている。
また御姫様の引越しの御供も大変であった。
姫様御供の責任者として柴田茂次右衛門が選ばれ、ほかに長沢忠太郎の
ほか足軽二十名。そして料理や買い物担当責任者が佐藤新次郎に任命され、
ほかに足軽が五人もついていた。
そのうえ重役たちに同行する従僕も大変な数になった。
示された基準をみると
六百石の家老で十一人、五百石で九人、四百五十石で八人、
あと三百石級で七人から五人、二百石級で四人から三人、
百石で二人、八十石から五十石は一人、といった具合である。
これらに家族を足した総合計が三千人を越えたのも納得できる。
こうして五月に入る。石川家では家老の近藤外記が大部隊の責任者とな
って引率し、船団を連ね海路を玉島港から伊勢白子港に回航させた。
そして白子から陸路で亀山に入った。このとき途中の井尻村小下で一人の
妊婦が出産したが、
『これは幸先が良い吉兆である。』
ということで、藩士一同が喜びを分かちあったという。
藩主の石川総慶が大名行列を組んで亀山に入城したのは六月四日であった。
このとき重役の佐藤則武は彼の祖父が延宝元年五月のむかし、京都御所が
炎上したときに鎮火した功績により、朝廷からとくに下賜された檀紅梅の
遺鉢を携えて入った。それを見た城下の人々は大変感心したそうである。
かくして双方が入れ替わって移動を無事完了させた。
このとき備中国から伊勢亀山までの支給された旅費はつぎのとおりだった。
一、五十石から六十石は一人につき、引渡し御用係りは銀五百匁
無役は二百五十匁
一、七十石から百石は銀七百五十匁から五百匁
あと百五十石、二百石、二百五十石、三百石…と上がり、六百石取り
の家老級では銀二貫百二十五匁乃至銀一貫五百匁となった。
下級藩士は十石級で三百匁、十俵以下では一人六十二匁であり、もっとも
安い人は銀三十一匁である。
この旅費はいまの金額に換算するとかなり安く上がったらしいが、これは
備中の玉嶋港から瀬戸内を経て、伊勢白子港まで海路をとったことにもよる。
いまに残る「御用掛人連借り人覚」を見ると、この移封の道中旅で家財
什器などを運搬する人数の基準が記載されているが、最高の六百石取りの
家老級では自前で十四人、藩の用意した人が十二人の合計で二十六人に
もなり、これに従僕の十一人と家族を加えると、四十人を越えてしまう。
このようにほかの石取りも同じ、石高によって相当数の人数が同行すること
により、六万石全体の移封がいかに大変な大移動であったか想像できる。
このとき亀山を去った板倉周防守勝澄は、関の豪商橋爪市郎兵衛から借
りた金四万九千余両を償還せず、そのまま備中に行ってしまった。
後を引き継いだ石川総慶はこの後始末をさせられることになり、明治四年
まで扶持米料の名目で、一ケ年あたり金五両一歩ずつ支払らい、あとは
事実上の帳消しにしてしまったというが、これは治世上で大きなマイナスと
なった。
『これは大名、武士として風上にも置けない行為。』
板倉政権の長所は新田開発で四千七百町歩の実績があるが、この借財放棄
行為を知り、人々は後で板倉勝澄を大いに非難したという。
かくして亀山城は新しい藩主、石川主殿頭総慶を迎えた。
石川家の治世はこの後、明治維新後の廃藩置県まで百二十八年間も連綿と
続くのである。
参考文献 柴田厚二郎「鈴鹿郡野史」
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