東海道の昔の話(13)
  頼山陽の伊勢参り          愛知厚顔 70代元会社員 2003/9/4投稿
 
 文政十二年(1814)春三月二十四日。
 近江土山の宿場を三つの駕籠が朝立ちした。こゝ数日はポカポカ陽気の好天が連日続いている。駕籠にゆられる主は初老の侍、そして彼の母と妻女である。彼らは急ぐ様子もなく駕籠かき人夫にすべてをまかせ、ゆったりと周囲に広がる景色に見入っている。
 途中、田村神社では駕籠を下り、坂上田村麿の神前に詣でゝ頭を垂れる。
  『まこと、武人の誉れ高いお方だ』
 男はつぶやくと、社殿の彼方に霞む鈴鹿の峰々を眺めた。東の箱根と並ぶ天下の険の鈴鹿山。しかしこのあたりはまだそんなに急坂ではない。
 街道の脇は田圃、畑が広がり、ところどころ茶畑もある。春風はなまぬるく頬をなでる。行けどもゆけども菜の花、レンゲソウ、タンポポの花が一面に咲いている。まさに春、春、春真っ盛りである。
  『こんなおだやか日々が待っていようとは…』
 男は感慨無量の面もちで、波乱の毎日だった我が生涯を振り返っている。男の名は頼山陽、このときちょうど五十才だった。
彼を国学者として有名にしたのは、二年前に上程した「日本外史」である。彼は儒学者として高名な父、春水の子として生まれた。
幼年期からすでに大器の片鱗を見せていたが、青年期に引き篭もり鬱の状態になり、一時は座敷牢に幽居される。しかしその間「日本外史」の草稿を完成させたのだから、不思議としか云いようがない。

 故郷の広島では菅茶山から漢詩を学び、だんだんと名が知られるようになる。とくに江戸遊学の途中、神戸湊川で詠んだ「大楠公」の一篇は一夜にして彼を名詩人に押し上げた。
 しかしときどき現れる病気と云ってもよいほどの遊蕩癖と女性問題。それに神経症。それは生涯絶えることなく繰り返され、妻や母を苦しめている。
 山陽もこの母がいつも彼のことを心配しているのを知っていたので、九州やほかの地方に在住する弟子たちを訪問するときは、出来るだけ母を同行して旅行を楽しませていた。
 壮年期には京都に学塾を構えると、彼の名声を慕って大勢の弟子が集まり、学者が出入りするようになる。しかし文政元年(1818)に父が没し、三度目の妻を娶るころから彼の健康もだんだんと損なわれてくる。

 かっては大垣の女弟子、江馬細香をはじめ、沢山の女性とも浮名を流したのが、このところとんとそんなことも無くなった。
  『またいつ病が悪くなるか知れない、いまのうちに母を連れて
   伊勢参りをしておこう』
 そして母と妻の三人ずれで京都の我が家を後にしたのである。
彼には男の子がいてそれぞれ成人して家を出ていた。しかし三男の三樹三郎はまだ六才だが、父親に似て非常に秀才で将来を嘱望されていた。何とか伊勢参りに同行したい思ったが、いま京都の学塾で勉学に励む毎日である。
  『達者で大きくなるよう伊勢神宮に祈念しよう』
 気苦労はどこの父も同じである。後年、この三男は安政の大獄で幕府に捕らえられ、刑死する運命をたどった。

 やがて三つの駕籠は蟹ケ坂をすぎ近江と伊勢の国境についた。
ここには数軒の茶店がある。彼らは一軒の店でしばらく休息した。
ここまでは緩やかな登りだったが、
  『ここからの下りが廿七曲り坂です。急坂です』
  『そうか、これが有名な鈴鹿山の険か…、菅茶山先生
   も詩をこのあたりで詠まれたのだろうな』
 菅茶山は郷里の岡山で彼に漢詩や国学を手ほどきした恩師である。
山陽が詩や歴史にも長じ、ひとかどの名が世間に知られるようになってから、師とは少し意見が違ったこともあり、ひととき疎遠になっていたが、近年はまた厚誼が復活している。


     寛政六年(1795)四月廿二日  菅茶山
    鈴鹿の諸峰、皆な妙、一峰の尖峻なる者は百斗岳たり。
    土人云く、峰巓に埒あり、雨を祈らば頗る験あり
    
     鈴鹿山また朝霧のかかれはや
           さかのの桜ちらずもあらなむ 

 菅茶山はここを三度通過している。なかでも文化十一年は冬二月だったので、かなり風雪に悩まされた峠越えだったらしく、厳しい寒さをこぼした漢詩を残している。

 それに比べ、いま春の盛りに越えられるのは何と幸いなるかな。
 三っの駕籠はゆっくり七曲り坂を下りきった。清滝岩屋観音あたりで道はまったく平坦になってきた。坂ノ下宿場はもうすぐである。
山の緑も近江側に比べると伊勢側はかなり季節が進んでいる。
 あらためてゆっくりと菜ノ花、蓮華草を眺める。山陽は駕籠の中でゆっくりと筆をとり、和綴じの手帳に一編の詩をしたためていった。

   路上  文政十二年(1814) 三月二十四日 頼山陽今では通る人も無い静かな七曲り坂
  東過鈴鹿路平平   東して鈴鹿を過ぎれば路へいへい
  旅服方逢連日晴   旅服まさに逢う連日の晴れ
  満地春風行不尽   満地の春風 行けども尽きず
  菜花黄雑紫雲英   菜花の黄にまじる紫雲英(レンゲソウ)

 西の近江から東へ鈴鹿の険を越えると路は平坦になる。
 天候は連日の晴天で春風がいっぱいだ。黄色い菜の花に混じって紫色のレンゲも咲いている。

 頼山陽は今日まで広く知られる数々の名詩を残した。しかしこの旅行のあと、天保三年(1832)に肺結核のため五十三才で没した。
 この春の旅が頼山陽の生涯で一番幸福なときであった。
      

 参考文献   頼山陽詩集  菅茶山全集
 
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