四月二十日、織田軍三万の兵は京都から近江坂本を経て越前へ向かう。
たびたび信長の上洛要請を無視してきた朝倉氏、
『織田の軍勢はこの越前に攻め寄せるのは間違いない。』
と予想し、北近江から越前に直接やってくると見て防御を整えていた。
ところが信長は若狭のルートで越前にむかったのだ。そして四月二十六日に
は金ヶ崎城を攻略、翌日には木目峠を越えて朝倉氏の本拠、一乗谷がすぐ
近くに見えるところに達した。ところがそれを知った浅井長政は
『お市との縁組のときの約束を破るとは許せない!』
と激怒し、
『もはや義兄弟の縁は切れた。彼らを生きて帰すな!』
二十八日、信長軍を背後から追う形で攻撃を開始した。まさか浅井勢が攻撃
してくるとは予想もしていなかった織田信長、長政の攻撃によほどおどろい
たとみえ、
『まさか!あの長政が!』
いまに残る記録にもその驚きが記されている。しかしこのとき朝倉義景の動
きが遅く鈍いのが幸いした。信長は直ちに兵をまとめ辛くも危機を脱出し、
京への道をひた走った。このときしんがりを守り助けたのは木下藤吉郎の
奮戦であった。
信長が敗走したことを知ると、間もなく近江一円で一揆や暴徒が蜂起しは
じめる。六角も兵を動かしはじめた。浅井朝倉勢も信長の追撃をはじめた。
この事態に京都に引き上げた信長は要所要所に部下の諸将を配置し、自身は
いったん岐阜城へ遁走してしまった。
間もなく織田信長と浅井、朝倉との合戦の知らせが伊勢国にも届いた。
伊勢国鈴鹿郡の鹿伏兎城でこれを知った鹿伏兎宗心は
『あの浅井長政どのが怒ったのはよほどのことだな。』
亀山城を宗家とする関家五城も、永禄十年から十二年にかけての信長による
伊勢侵攻で苦しい戦いを強いられ、いまでは織田の幕下になり下がっている。
浅井長政の心を思うと、かって信長に対して抱いた激しい敵愾心が再び燃え上がってくる。
『クソ信長め!武士の風上にも置けない奴だ!』
父の近江守定長はすでに没し、いまこの城主は自分であり責任は重い。その
うえ六郎と四郎の二人の我が子はまだ幼い。しかし彼は決心した。
弟の左京之進定義と叔父の坂定住にむかい
『どうしても信長を許せない。このたびの近江の合戦では
浅井長政どのに味方したい。』
と申し出たが
『兄上、たしかに我らはかって織田と苦い戦をしたが、
いまや織田の軍に組み込まれている。ここで浅井に味方
すれば織田に反逆することになり、亀山の宗家も我ら
関一族も危なくなる。自重してほしい。それに兵も僅か
しかいないない…』
弟と叔父は彼に思い止まるよう説得した。しかし宗心の決意は固かった。
『長政どのとは長い付き合いがある。いま彼が決戦をしよう
としている。じっとしておられようか、できる限り彼を
助けるのが武士の情です。あとのことはお二人にまかせる。』
こうして宗心は六郎と四郎の子と鹿伏兎城を叔父と弟に託し、僅かな兵を
伴って湖北にひた走ったのである。
数日ののち鹿伏兎宗心たちは小谷城の浅井長政に援軍の挨拶をした。
『はるばる伊勢から来て頂きまことに恐縮、数々の信長の
仕打ちはまことに許し難い。激しい決戦になると思うが、
どうか宗心どのよろしくお願い申す。』
『委細承知仕る。』
やがて五月末になると織田信長は二万五千の兵力で小谷城へと押し寄せた。
しかし難攻不落の小谷城はびくともしない。戦略の常識では城攻めには十倍
の兵力が必要とか…。数では織田側が圧倒的に多いとはいえ、それだけの兵
はいない。そこで信長は
『浅井軍を城からおびき出せ!』
と命令する。
そこでつぎの作戦として小谷城の包囲網を解除してしまう。そして隣の
横山城を攻撃したのである。この城は近江から越前に通じる要害の地にある。
織田軍の動きを知った浅井側は
『横山城の危険を放置できない。小谷城を出て横山城の救援に
行くべきだ。』
と諸将はいきまく。しかし長政は
『城の守りがあってこそ勝利できる。野戦では不利である。』
と主張したが、応援の朝倉景健の一万人が同意しない。やむを得ず
『では夜陰に城を抜け出て救援に行こう』
と決定した。このときさらに織田には徳川家康の援軍も到着、合計で三万
四千人にふくれあがっている。それに対し浅井、朝倉軍は一万八千人である。
夜の闇にまぎれて浅井、朝倉軍は城を抜け出て移動をはじめた。
しかし織田信長はすぐ察知した。
『敵陣内に終夜かがり火が燃えている。これは決戦に出てくると見た。
野戦こそ我らの好むところなり。』
かくて翌六月二十八日午前四時、姉川の流れを挟んで北に浅井、朝倉の
連合軍。南に織田、徳川の連合軍が対峙した。やがて徳川の酒井忠次、
小笠原長忠の軍に動きがあった。
『それっ!突っ込め!』
朝倉軍めがけて突入する。こうして激しい姉川の合戦が始まったのである。
また隣の戦線では浅井軍の磯野員昌の猛攻が激しく、織田軍の先陣だった
坂井政尚はたちまち追い払われてしまった。
まさに一方が押せば他方では押し返される。どちらが有利なのか情勢が
判らない混戦乱戦模様である。
このときの浅井の先陣、磯野員正(佐和山城主)は、織田軍十三段の構えを十一段まで突き破る猛攻を見せた。
「まさに火花を散らした戦だった。激しい息も絶え絶えの有様で
あった。」
やがて織田信長の作戦が的中しはじめる。
次第に平野での合戦は織田徳川の連合軍に勝利がみえてくる。この大事な
合戦に朝倉の総大将、朝倉義景が参加していない。これでは士気が上がらな
い。崩れかかった朝倉軍をみて徳川家康は榊原康政に側面から攻撃を命じた。
『いまこそ好機だ!かかれ!』
このとき織田軍は十三段構えのうち十一段まで破られていたのが、徳川軍
による攻撃で戦機好転し、浅井軍を押し返してしまった。さらに織田側に
美濃三人衆の軍も加わり、浅井と朝倉は総崩れとなって壊走してしまった。
伊勢国鈴鹿郡の鹿伏兎城から浅井軍に加わった鹿伏兎宗心と兵たち。
彼らもこの乱戦のなかで必死に戦っていたが、つぎつぎに壮烈な討ち死をと
げていった。彼らの最後の様子を記したものは残っていない。
この姉川の戦いで織田軍八百余、浅井は千七百余の戦死者を出している。
これ以後、織田信長は佐和山城を攻め落し近江を攻略する。
天正元年(1573)には最大の脅威、武田信玄の死に乗じ、信長は朝倉氏を
滅ぼす。八月末には小谷城を攻め浅井久政は自刃、六十二歳。
お市の方と三人の娘を信長のもとに送り、浅井長政も自刃してしまった。
享年二十九歳であった。
鹿伏兎城に残された宗心の叔父と弟、そして宗心の幼い六郎と四郎の二人
の子供たち、彼らはこの後、数奇な生涯をたどることになる。
(終り)
参考文献 「瑞光寺記」「信長公記」「人物叢書、浅井長政」
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