東海道の昔の話(14) 飯沼慾斎と本草学の仲間 愛知厚顔 元会社員2003/9/6投稿 |
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三重県菰野町の町花は〔コモノギク〕である。 この花を発見したのは、伊勢亀山出身の本草学者(植物学者)の飯沼慾斎である。この花は御在所岳の周辺にとくに沢山咲いており、可憐な花を咲かせる野菊で貴重な種類である。 菰野町ではいまでも花の発見した恩人として、飯沼翁は尊敬されている。 飯沼慾斎は1783年、亀山西町の西村信左衛門守安の次男として生まれた。父は生粋の美濃大垣の出身だったが、大垣の家をたたんで亀山在住の実弟西村源兵衛守城の家に奇寓し、一家で伯父の「鮫屋」を手伝っていた。伯父は亀山城に近い西町の青木前で手広く商売をしていたのである。 飯沼慾斎の幼名は西村本平と言い、子供のころから 「学問で身を立て立派な人になりたい」 と発願していた。十二才のとき大垣在の母方の実家にゆき、親類の医師に弟子入りし医学を学んでいる。この当時の医学は薬草の研究が必至であり、慾斎も次第に植物の世界に踏み込んでいった。 当時本邦一といわれる本草学者の小野蘭山が、幕命で諸国へ薬草の採取旅行で大垣に立ち寄ったとき、蘭山に入門して本格的に植物学に取り組んだ。大垣では飯沼家へ養子に入り医院を開業。地域の人々に奉仕するかたわら、植物採集や研究も熱心におこなった。 そして安政三年(1856)には名著〔草木図説〕を上梓した。 これは日本における古い本草学を、新しい西洋植物学へ転換させる道を拓いた画期的な内容のものであった。平成のいまも植物の写生画などに、この〔草木図説〕から引用されているものが多く、名著との評価が高い。 やがて尾張、美濃の植物学者仲間が集まって〔甞百社〕という研究グループができた。中心者は名古屋の蘭医、伊藤圭介である。 慾斎は年齢も彼らとはかなり上で居住地も彼らと離れており、学識経験も豊富だったことから、顧問か相談役の立場でこのグループのアドバイザーを引き受けた。 この甞百社の学者たちが湯ノ山温泉の杉屋に投宿したのは安政五年(1858)の五月だった。この当時、本草学というのは主として植物学だったが、ほかに動物、地学、天文にまでまたがった幅広いものである。 勿論、奥深い研究は未完成だが、鎖国の時代に生きる学者たちは、何とか西洋先進国から学問知識を得ようとして努力を重ねていた。 グル−プのまとめ役、伊藤圭介は当時五十六才。彼は尾張名古屋の城下で医院を開業し、若くして名医の評判を得ていた。 天保四年(1833)に発行された名医番付表では東の前頭の筆頭である。 湯ノ山温泉杉屋に投宿した人々の最年長は飯沼慾斎、もう六十才をとうに過ぎていた。この年の数年前には当時、非常に高価で入手困難だった顕微鏡を苦心して自作に成功していた。わが国で最初の顕微鏡製作である。そして植物研究に精魂を傾けるあまり、とうと う医業を投げうって自宅に植物園を拓き、研究三昧の生活に入っていた。 彼はたびたび鈴鹿の山や奥美濃、木曾、紀州の山々にまで足を運んでいた。この間に菰野山ではコモノギク、奥美濃の能郷村では野生のノウゴウイチゴを発見している。 この甞百社の一行は飯沼翁の業績に敬意を表して、この安政五年の菰野山植物調査を〔飯沼翁記念調査登山〕と名付けた。 この御在所岳、鎌ケ岳の一帯は古くから「菰野山」と呼ばれ、珍しい山野草が多く自生していることが知られていた。一行の学者たちもこの山はすでに何回も足を運んだ人々である。 一夜明ければ快晴、宿屋の杉屋の主人、喜三郎を山案内に雇い、一隊は御在所岳にむかった。一の谷渓谷を横切り、多古地と呼ばれる大杉の点在するところから尾根筋を頂上にたどる。この道は現在の表道登山道と殆ど同じである。当時は杣人がたまに利用する程度で、彼らが通行しなくなると、たちまち元のイバラ道に戻ってしまう。 このときも炭焼きがない周期にあたったので、猛烈な薮漕ぎを強いられて登っていった。 標高が高くなって変化する植生、地質環境の変化によってどんな植物が生えているか、克明に観察したり写生したり調査をしながらの登山である。頂上までもかなり時間がかかっている。 また別働隊は蒼滝周辺、不動山、北谷、藤内壁などを巡り、水性、隠花性の植物採集を行った。 つぎの日も快晴。きょうは鎌ケ岳周辺の調査である。 長石谷、三ツ口谷、あるいは稲森谷などの主流系渓谷はもとより、犬星ノ大滝、金渓谷やその他の支谷、枝谷まで克明な調査の手を入れていった。犬星ノ大滝あたりでは、イワザクラの群落を発見して喜んでいる。この花は土佐で最初に発見されたので、トサザクラと 呼ばれていたが、鈴鹿での発見が早かったので、鈴鹿の命名イワザクラが正式となっている。このとき飯沼慾斎や伊藤圭介は 『近い将来に絶滅する運命の花である』 と予言した。その予言は不幸にも的中したようで、近年には山野草ドロボーによって盗掘され、いまではほとんど見られなくなった。 このようにして頂上や尾根、谷筋など、人のたどれとうなところは、すべて足を踏み入れ調査された。この調査登山は六日間にわたった。これは平成の今日に至るも、これほどの大規模かつ徹底した調査は行われていない。このとき調査できた植物の種類は三百六十 五種にものぼった。そしてイワザクラのような絶滅の心配されるリストをまとめている。 『将来絶滅する恐れのあるもの』 コノモギク、チョウジギク、キヨスミウツボ、イワザクラ、 アカモノ、ハクサンオミナエシ、ハナノキ、イワキンバイ、 イチョウラン、ウチョウラン、クマガイソウ、ジンバイソウ、 カタクリ、キンコウカ、ギョウジャニンニク、バイケイソウ、 ムカゴツズリ、ホンゴウソウ、 百数十年を経た今日、幸いにも予想が外れたものもあり、まだかなり山中で見ることができる。しかしクマガイソウ、イワザクラ、ムカゴツズリ、ホンゴウソウなどは、見つけるのが非常に困難なありさまである。 わが国の植物学は世界的にもトップレベルにあると言われるが、ここに至るまでには学者たちの長い苦闘の歴史があったのだ。 幕末にオランダからやってきた蘭医シーボルト。彼は医学のほかに化学、動物学、植物学など、西洋の新知識を日本に紹介した恩人である。彼がわが国の植物学者たちと交流し、熱心に指導したことはよく知られている。 シーボルト数年おきに江戸幕府に拝謁するため、不自由な駕籠の旅をしていたとき、尾張知立の宿で尾張の本草学者たちと面談している。 彼の旅日記には彼らの植物研究の高いレベルに驚き 『日本の植物学者たちは世界的な大学者である』 と敬意をもって感想を記している。 その研究の牽引力となっていたのは亀山出身の飯沼慾斎であった。 いま彼の生誕碑は亀山城多門櫓を望む場所に建てられている。 そして大垣市は没後の彼を名誉市民に顕彰している。 |
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