東海道の昔の話(140)
   岡本宗憲の朝鮮出兵  愛知厚顔  2005/3/29 投稿
 


 文禄元年(1592)春、新築なった亀山城の主、岡本宗憲のもとに豊臣秀吉から命がくだった。
 『征渡水軍の船奉行に任ず。』
これは朝鮮出兵のための輸送責任者のようなものである。秀吉は二年前に
小田原城の北条氏降伏させ、ようやく日本全国から戦乱の火が消えたばかり。
亀山城の前の城主、関一政は主君の蒲生氏郷が会津四十二万石を与えられ、
移封されたので彼も白河城に移っている。関一政に替わって亀山城に入った
のが岡本宗憲である。
 岡本宗憲は尾張春日井郡の出身、幼名を平吉郎と云いのちに太郎右衛門と
なる。はじめは織田信孝の家臣として伊勢神戸にやってきた。天正のはじめ
に鈴鹿郡峰城(亀山市川崎町)に入ったが、秀吉の小田原城攻めに加わった。
その後、鈴鹿郡一帯の三万余石と北勢地方の四万石の合計七万石、それを
豊臣秀次が管轄するようになる。秀次の代官、沢善蔵は関宿で治政を担当し、岡本宗憲は亀山城で軍務を担当していた。

 亀山の地は長引く戦乱で荒廃がひどかった。
ことに城郭の類は兵乱のため多くは廃墟となり、また鉄砲での合戦が主力の
時代となって、旧来形の武士個人の勇気で戦かう時代ではない。集団戦での
合戦が雌雄を決する世となった。おのずから城郭も脆弱な構造を根本的に変
える必要に迫られる。
 岡本宗憲はこれらの条件を念頭に入れ、天正十八年から城の改築にとりと
りかかった。亀山の旧館(フルタチ)にあった善導寺の巨刹、あるいは豪商の与助
なる者の鍛冶工場の建物を強制的に取り壊し、新城の建築資材に充当した。
 宗憲は合戦形の武将というより、金銭帳簿全般また土木工事に明るい城主
であった。彼は全力を傾注して亀山新城の築城につとめた。
本丸、二ノ丸、三ノ丸を整え、また天守閣を置いた。のちに壮大な亀山の
胡蝶城と賞賛される城の原型ができあがった。また丹陵城と呼ばれた若山城
は西北方の防備のため残された。いまここは公園になっている。
 新築された美しい亀山城を見て、人々は
 『この城があれば戦があっても大丈夫、このまま戦がなければよいが…』
と喜こんだのだが、秀吉からの容赦のない命令に
 『せっかく立派な城が出来たというのに…、こんどは朝鮮から
  中国と戦をするとは…なんでや?』
おどろきの声がわき起こった。

当時、日本に来ていたキリスト教宣教師ルイス・フロイスは著書「日本史」
で秀吉の中国征服宣言をつぎのように記している。
『私は今や日本全国の唯一の君主である。また
  中国を征服することが私のつぎの仕事である。』
ようやく日本の戦乱が終わり、これから復興の大事業が必要というときに、
秀吉の野望に反対した者は細川忠興など、数人の武将は反対意見だった。
なかでも強硬に反対したのは秀吉の弟の豊臣秀長であった。彼は死力をつくして秀吉の野望に反対した。信長の家臣だった前野氏の残した記録「武功夜話」に、そのときの豊臣秀長の言葉がでている。
『天下統一を果たしたいま、われ我は国内の政治に注力すべきです。
  外国と戦争するなどもってのほかの暴挙です。それよりも外国と
  仲良くし貿易で利益をあげることが第一でしょう。外国を征服し
  ないと、部下たちに新しい領地を与えることができないというなら
  ば、私の領地を削って与えてください。』
至極もっともな意見である。

豊臣秀長は人格者で温和な人柄から多くの武将に慕われていた。
彼が秀吉よりも長生きしていれば、豊臣政権が家康に奪われることはなかっ
たであろう。しかしこのとき豊臣秀吉に真っ向から反対を唱えたのは、
彼一人であった。だが運命は皮肉なもの秀吉より先に弟の秀長が死んでしまう。
これはもはや秀吉の狂気に反対する者がいなくなった。秀長の死後、秀吉は
誰に遠慮もいらぬとばかり中国遠征を宣言した。
ルイス・フロイスの「日本史」には
『私は日本の国王である。私に従い中国遠征を開始せよ。
  万が一、お前たちが戦いで命を落としたとしても、それは
  永遠に記念され、賛美されるであろう。お前たちは死の苦
  しみを甘んじて受けよ。たとえ私の息子が涙を流してこの
  遠征を断念させようと私に嘆願しても、私は決して聞き入
  れはしない。』
もはや並の人ではない。秀吉は完全に狂ってしまっていた。

 文禄元年(1592)、豊臣秀吉から征韓出兵の船奉行を命じられた亀山城主、
岡本宗憲は手兵五百人を率いて急遽築造された九州名護屋城に向かった。
 このとき日本各地から九州に集められた兵は十五万余という。この大軍は
一番隊に小西行長一万八千七百人、二番隊が加藤清正の二万二千、三番隊が
黒田長政ら一万一千、ほかに島津義弘、福島正則、小早川隆景、毛利輝元、
細川忠興ら全部で九軍団。合計十五万余人の大軍団で大将は宇喜田秀家である。
 『この大軍団を無事に朝鮮半島へ送り届けなければならぬ。』
それだけでも大変だが、同時に武器や弾薬、食糧、建築資材なども輸送しなくてはならない。これを担当したのが鳥羽の水軍の九鬼嘉隆、藤堂高虎、脇坂安治、加藤嘉明、菅達長、桑山一晴ら十将である。彼らは合計一万二千人の水軍と船員から成っていた。
 岡本宗憲も亀山から兵五百人を伴い、この水軍に所属して輸送を担当していた。
 『何のために戦にいくのか…、しかしこれだけの屈強な兵が
  遠征するのだから、相手はすぐ降伏して戦はすぐ終わるだろう。』
亀山の兵たちは大軍団の勇姿をみて、
 『早く戦を終わらせ亀山に帰りたい…』
と本音を漏らしていた。

 岡本宗憲ら水軍の努力もあり、十五万余の日本軍は無事に対馬海峡を渡り朝鮮半島に上陸した。彼らは上陸するとすぐ釜山城を目指した。そしてたった三時間で城を陥落させる。このとき小西行長が率いる秀吉軍は釜山の町を焼き払い城兵はもちろん捕虜や一般市民まで容赦なく虐殺していった。
「吉野甚五左衛門覚書」の記録では
 『釜山の人々は、皆ひざまずいて、手を合わせた。彼らはと聞いたこと
  のない言葉を話したが、助けてくれと言っているのに違いない。
  しかし、我々はそれを聞かなかった。われ我は”軍神への血祭りだ!”
  と言って、男女の区別なく斬り殺し踏み殺した。』
もうこれは戦というものではない。徹底した狂気の大殺戮である。あわれな犠牲者の数は三万余ほどに上った。 その後も秀吉軍は快進撃を続けた。そしてあっという間にソウルを陥落させ、さらには平壌までも占領してしまう。
しかし秀吉軍の占領政策はひどかった。彼らは朝鮮各地から食糧を根こそぎかき集め収奪した。そのため朝鮮の人々は飢えに苦しんだ。飢えた民衆たちが、日本兵を伏し拝み食糧を求めた。しかし彼らは無残にもそれを斬り捨てたという。
 
 開戦以来、南の慶尚南道ではほとんどの地域で日本軍の侵攻を受けた。
しかし道都の普州(チンジュ)だけは秀吉軍の侵攻の阻止に成功した。この普州城は洛東江の支流の南江に面しており、当時からいまも朝鮮第一の名城として、その景観や楼閣からの眺望の素晴らしさ、そして軍事的な要衡としてよく知られていた。 
 文禄元年(1592)十月、この名城を守っていたのが正規軍、そして義兵と呼ばれる一般住民の義勇軍三千である。細川忠興の指揮する精鋭軍は
 『奴ら一揆ばらなど何するものぞ!』
と、意気込んで攻城をはじめた。しかし相手のなかの義軍と呼ばれる兵は
 『なんとしても我らの郷土を守るぞ!』
との意気の燃えていた。彼らは全羅道の各地からはせ参じた郷土愛に燃えた人々であった。寄せ手の細川忠興は苦戦を強いられる。そして岡本宗憲にも
 『急ぎ応援を得たい。』
と応援助力の要請があった。細川忠興は自ら引き連れてきた一万一千と応援の一万で攻撃をしていたが、連日の苦戦である。とうとう全面の普州城と後背から義軍の攻撃を受ける羽目になった。岡本宗憲は
 『わずか五百の我ら手兵まで頼ってくるとは…』
苦戦の模様が想像できる。彼は友軍の長谷川、牧村、木村の諸将と相談し
 『細川殿に三百の応援を差し向ける』
と使者に伝えた。そして家臣の河本九之丞に命じて参戦させた。しかしこれら友軍の応援部隊と普州城を攻撃したが、守りは堅くて落城しない。そのうち突如として
 「ドーン!」
大雷雨が日本軍の各諸隊に襲いその落雷は宿営を焼き払った。このとき普州城の守将、金時敏は城の新北門で壮烈な戦死を遂げた。戦は朝鮮軍の勝利に帰した。
細川忠興指揮の日本軍は敗退したのである。朝鮮側の「忠烈実録」という記録では
 『路上には敵の屍が累々として枕を並べて腐乱している。
  城中では太鼓を鳴らし狂喜乱舞、勝利の喜びは天地
  を動かした。』
とある。

 普州での敗戦の知らせを受けた秀吉は激怒する。
 『徹底して攻め落とせ。情け容赦はいらぬ。』
と再攻撃を命令した。
文禄二年(1593)六月、こんどは宇喜田秀家を総大将に九万三千の大軍が普州城をとり囲んだ。そして水濠を南江に落とす大規模な土木工事を行い、また鉄砲隊の櫓を多数配置するなどした。前回の失敗を反省して作戦を周到に準備し、そののちに城の攻撃を開始した。激しい攻防戦は七日にわたった。
 しかしさしもの名城も水、食糧、矢弾が尽きる。それに圧倒的な兵力の差である。
だんだんと倒れる兵も増える。日本軍は城の反撃が弱くなったのを見て
 『それ!敵は怯んだぞ!もう少しだ』
と総攻撃に入る。守る側は正規の官軍、義勇兵、そして一般民衆たち六万。突入した日本軍とあちこちで白兵戦が繰り広げられた。しかし続々と際限なく現れる日本兵に次第に追い詰められ殺されていく。やがて最後のときがくる。
 『無念だ!』
六万人が篭城した普州城の最後である。ほぼ全員が殺害され長い長い攻防戦が終わった。

 数日後、血の跡の生々しい普州城で日本軍の戦勝祝宴がはられた。
そのとき宴席で酒の接待をさせられていたのが官妓のノンゲ(論介)。彼女はいやいやながら無理やり敵軍の接待をしていたのだが、酔ったふりをして加藤清正の配下の武将、毛谷村六助にしなだれかかり、彼を伴って南江に身を投じたのである。
このとき彼女は両手の指に指輪をはめ、六助を抱いた自分の両手がほどけないようにしっかりと組んでいた。身を投じたとき立ったという義石もいまに残る。
南江にかかる普州橋の欄干には、彼女の指輪の円環を形どって配置されているという。
 私事ながら、私(厚顔)は平成八年に韓国第二の高峰、智異山(1950m)に仲間と登った。この山は釜山から西、半島南端中央部の全羅北道と全羅南道、慶尚南道の境に位置する。鈴鹿の御在所岳によく似た山容と植物相が印象に残ったが、無事に登って下山してきたところ、釜山の男女大学生が
 『終発バスに乗り遅れたので同乗させてほしい。』
私たちは
 『いいですよ。』
と十人ほどの男女を乗せた。そして釜山まで三時間ほど、お互い残り物の焼酎やビールで楽しい車中交流が始まった。ところがバスが普州市にさしかかったとき、それまでにこやかに談笑していた大学生が向こうの古城を指し
 『あの城壁の焦げ目がわかりますか?、あれは豊臣秀吉の軍が焼いた跡です。
  あなたがた日本人はあれを見てどう思いますか?。』
と真顔になって激しく語った。私たちはそれまでとガラリと変わった彼の表情に唖然とするばかり、初めて聞く強烈な話に言葉も出ない。彼は
 『そのとき敵の宴席にいた一人の妓生(キーセン)が、武将の一人を
  抱いて川に身を投げたのです。この川がその川です。』
 『韓国と日本は隣同士の国、これからもぜひ仲良くしていきたい。
  だがあなた方の先祖が、わが国にひどい仕打ちをしたのです。
  このことは絶対に忘れないでほしい。』
と念を押すように語った。秀吉の朝鮮出兵の事実は知っていたが、こんな地方にまで傷跡があったとは…、私たちは五百年前の惨事が、まるで昨日のような出来ごとに思われたのであった。

 この普州城の第二次殲滅殺戮戦に岡本宗憲の兵も参加していた。
野尻村(亀山市野尻町)の打田五平次という人もこの戦に参加しており、城が陥落したとき福禄寿の像一軸、そして香炉、燭台などを拾って持ち帰っている。
たぶんいまもご子孫の家に伝えられているはずである。
だが豊臣秀吉の野望は朝鮮の征服ではなく、あくまで〔中国征服〕である。
彼はまさか朝鮮征服に、これほど時間がかかるとは思ってもみなかったし、
これほど日本軍が苦戦するとも思っていなかった。そして激怒した秀吉はとうとう、恐るべき命令を下したのである。
朝鮮側の記録である「乱中雑録」には、その命令が記されている。
『 朝鮮人を皆殺しにし、朝鮮国を空き地にせよ。』
日本側の記録にも秀吉が
 『老若男女を問わず、朝鮮人を皆殺しせよ。』
と命じたとある。秀吉のこの発言は恐らく事実なのだろう。
キリスト教宣教師ルイス・フロイスは、そんな秀吉を「暴君」と評している。

 だがひとつの救いがある。それは〔看羊録〕という書物の中にある。
著者は朝鮮の儒学者、姜である。学者である姜は非戦闘員でるにも関わらず、日本軍に捕らえられ日本に強制連行された。彼がその時の体験を記録したのが、この書物であった。
姜が捕虜になったとき、彼の幼い子供たちは日本軍によって虐殺された。
看羊録には
『私は日本軍を避け船で逃げている最中、捕らえられた。
 日本兵は幼い息子と娘を水中に投げ捨てた。二人が水中から
  泣き叫ぶ声は耳に痛々しかった。それもしばらくしたら絶えてしまった。
  私は三十才にしてやっと息子を得た。妻が妊娠したとき私は夢を見た。
  竜が水中を浮いている夢である。だから私は息子の名前を「竜」と名
  づけたのだ。そのときいったい誰が自分の息子が水中で死ぬなぞと
  思ったであろうか…』
じつにむごい悲惨な話だ。
どんな戦争でも不幸であり悲劇だが、なぜ親が水中に自分の子供を投げ捨てられる姿を見なければならないのか。

その後、捕虜となった姜は愛媛県に連行された。
食事も満足に与えられないまま、歩き続けさせられた彼。あまりの疲労でとうとう川を渡る途中で水中で倒れてしまった。
その時の様子を彼は
 『私は水中に倒れた。力がないから起きあがれなかった。すると
 川岸にいた一人の日本人が涙を流しながら駆けつけ、私を助け
  てくれた。そしてその日本人はこう言った。
  「ああ!何とひどいことを! 
 秀吉様はこの人たちを捕らえて、一体何をさせようというのか。
 どうして天道がないわけがあろうか。』
 『そしてその日本人は急いで家に走って戻り、食事とお茶で私をもてなしてくれたのである。日本人の中にもこういうような心を持っている人がいる
  のだ。彼らが戦場で殺人を喜ぶのも命令が彼らをそうさせているのである。』
この一文で私たちは救われる思いがする。
私たちは秀吉軍の悪逆非道ぶりを知るにつれ、自分が日本人であることが苦しかった。
だが同胞たちが虐殺され、子供を水中に捨てられ、自らも虐待を受けた姜が
 『日本人の中にも、こういうような心を持っている人がいるのだ。彼らが
  戦場で殺人を喜ぶというのも、命令が彼らをそうさせているのである。』
と書いている。
私たちは日本人として彼に感謝したい。そしてかの国に謝罪したい。

 豊臣秀吉の朝鮮出兵…。
やがて戦は秀吉が死んだことによって終了する。徳川家康が撤兵を決意したのである。
長年に渡る戦争の中で日本側が得たものは何もない。ただ憎悪と悲惨な犠牲を残しただけである。
 この戦について賛成していた日本人はほとんどいなかった。前野氏の「武功夜話」
にもこの出兵について
 『まことに空虚な戦争であった。』
と述べている。
 今日、島根県議会での「竹島の日」制定に韓国の人々は大きな怒りを見せた。
この元をただせば秀吉の理不尽な出兵〔韓国では壬辰倭乱〕や、三十六年間にわたる過酷な植民地支配にある。一度は小泉首相と懇談して
 『過去の歴史問題は持ち出さない。』
と云っていたノ大統領も
 『日本支配時代に幾千、幾万倍の苦痛を受けた我が国民の怒りを
  理解しなければならない。』
と述べた。これほどわが国は韓国の人々に深い憎悪と悲しみを残しているのである。



参考文献  「武功夜話」 「看羊録」 フロイス「日本史」 「九九五集」
      「吉野甚五左衛門覚書」 「鈴鹿郡野史」「乱中雑録」

 
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