世情は騒然としていた。
幕末の慶応三年(1867)暮も押し迫った十二月二十五日、孝明天皇が崩御された。
『世の中これからどうなるんや?』
亀山城下の人々は不安な面持ちで世情を案じていた。すでに前年に薩摩と長州が倒幕の密約をしているのだが、亀山で中央の動向を察知できる人は少ない。このとき藩内の政権を担当していたのは保守派の家老、佐治亘理、名川六郎右衛門、加藤内膳らであった。
改革派〔尊王倒幕派〕の近藤幸殖や黒田孝富らは謹慎処分を受けたままである。自宅で天皇崩御の知らせを聞いた近藤幸殖はつぎの和歌を詠んだ。
加茂の山八幡の山のいでましも
今日ははかなくなりにけるかな
嬉しさとは誰か思わん此の春は
梅の匂いも鶯の音も
徳川政権に少し同情的だと思われていた天皇。けれど崩御の報を聞くと悲しみが増す。ことに近藤は京都の幕府側と勤皇派に多くの知己を持っているのでなおさらであった。
騒然とした世情に人々の心も荒んでくる。
宿場町の亀山は上方や江戸からの情報が旅人の口からいち早く届く。
この亀山宿の駅伝役人には、一般の町民から撰んで任命される者が多かった。これは平素から裏町にあたる東町に居住する駕籠かき、馬方たちを懐柔し統率しておくことが必要だったからである。
亀山の駅伝役人は宿場定住の者の人馬を優先し、軽量で収入の多い貴重品などの運搬を割り当てたりした。これは日ごろから彼らを味方につけておく政策だった。
その一方で助郷と呼ばれる臨時の駕籠かき、馬方たちがいた。
この人たちは普段は農業に従事しているが、大名行列や旅人が多いときは臨時の宿場人夫として応援に駆り出された。それも藩から強制的に応援人数を命令される。農繁期や葬祭などがあるときも、お構いなしであり、そのうえ駅伝役人から重い荷物や収入の少ない仕事を割り当てられる。これではたまったものではない。
『馬鹿にするな!』
藩の侍でもない、自分たちと身分も大して違わない駅伝役人め。彼らの横暴に助郷たちはいつも不平をこぼした。この助郷たちの不満を抑えるのに東町に居住する宿場の専従駕籠かき、馬方があてられた。
彼らは藩役人の意向を汲み助郷たちに
『お役所のお達しである』
と恫喝と懐柔で抑圧した。しかしたび重なる差別に助郷たちが爆発するときがきた。
慶応四年(1868)正月、亀山周辺の村々の農民たちは密かに集合し
『この際、一揆を起こしてこの苦痛から逃れようぞ!』
と企てた。しかし藩はもちろん亀山城下の人々も、この不穏な動きをまったく知らなかった。
一月五日、小助郷(コスケゴウ)に属する大綱寺、野尻、落針、野村、住山、亀田、羽若、川合、井尻、和田、椿世、田村、菅内、八野ら十四村の農民が一人二人と集ってきた。彼らの数はだんだんと増え、やがて阿野田村の菅原神社の北方の鈴鹿堰(天神渡り)に集合しはじめた。
『我われの我慢も限界だ。これ以上は辛抱できない。
これから我らの苦情を役人に申し立てようぞ!』
リーダーのあじ演説に
『そうだ!そうだ!』
筵旗を立て鎌や鍬を振り上げて気勢を上げる。やがて夜を迎えると赤々とかがり火を焚きはじめる。
『うおーッ!』
その声は城下の人々を恐怖に陥れた。やがて一揆の集団は動きだした。
彼らは宿場役人の魚庄こと魚屋庄七、山興こと山口屋興七、白子屋四郎兵衛、伊勢屋嘉七、佐野屋源治、米屋市兵衛、岩田屋作兵衛らの店や住宅を襲撃しようと進撃を企てた。
一揆の暴徒はやがて西新町の酒造業、櫨屋善太郎の店に姿を現し
『日ごろの恨みだ!飯を炊け!』
と脅迫し貯蔵米を出させたうえ飯を炊かせた。
この事態に亀山藩は衝撃を受けた。
奉行の半田吉太夫、塚本與六、山崎弘人および町奉行の平井三二、原佐五太夫らは、おっとり刀で配下の侍たちを集め暴徒の鎮圧に乗り出した。
暴徒たちはどうやら宿場の駅伝役人の住宅ばかり狙っているようだ。
町奉行と配下は彼らの進む道すじを読み、先周りして進路を防ぐ戦法をとった。はたして暴徒の一団が姿を現し
『我らはお役人さまと事を構えるつもりはありません。
宿場役人と仕事の話合いをしに行くだけです。』
暴徒のリーダーはいう。しかし一揆の風体は隠しようもない。奉行の半田吉太夫は
『暴力を用いるならきついお咎めは間違いない。
話合いを穏便におこなうなら藩としても温情ある
沙汰を考える。よく考えて行動してほしい。』
おだやかに説得にあたった。もうこのときには亀山城下での噂は
『広瀬野には五千人もが一揆を起こして集まっている』
『まもなく暴徒の群れが亀山の町を襲うぞ!』
恐怖が恐怖を呼び、流言蜚語が飛び交う。これを信じ早合点した者は台八車に家財を積み避難する騒ぎになった。
鎮圧の奉行たちは
「まず暴徒たちの二つの集合拠点を分断しよう」
と広瀬野と鈴鹿堰との連絡を遮断する作戦をとる。町奉行と同心たちは二重に配列し道路をふさいだ。そして暴徒の代表を呼び
『お前たちの主張は責任をもってこの奉行が宿場役人
に伝える。どうかいまのうちに解散してほしい。いま
ならまだ間に合う。』
と誠意ある説得を試みた。あとで判明したことだが、広瀬野に五千人の暴徒云々はまったくの流言であった。
正月六日の夜、町奉行の山崎弘人はさらに単身で一揆の群れに分け入り
『どうか我らの言葉を信じてくれ。絶対に血を流して
はならぬ。私が責任を持ってお前たちの言い分は
伝える。自重してくれ。』
たび重なる説得にようやく暴徒たちは我れにかえる。冷静になってよく考えてみると、やはり暴力に訴えての行動は犠牲があまりにも多い。
『よく判りました。お奉行さまに一切をお任せし、
我らは解散します。』
と説得を受け入れたのであった。
この山崎弘人は日ごろから農民に理解を示し、
『お前たちは藩や殿様にとって大事な我が子である。』
と云って温情ある態度で知られていた。農民たちの暴徒も彼をよく知っていたこともあり、山崎の説得に素直に応じたと考えられる。
明和五年(1768)の農民大一揆以来、亀山藩は農民の意見をよく聞き届け、その与論を用いて民政を行ってきた。山崎は明和の大一揆を穏便に処理した当時の家老、石川加毛に比べられる人物であった。
この小助郷農民の暴発行為は、共通の意見を大勢で徒党を組んで力を背景に発表したに過ぎない。
この時代の農民は口下手で筆をとることも難しい人が多かった。
そこで日ごろの鬱憤を大勢の勢いにのって吐こうとしたのだろう。
いまでいう団体交渉ともいうものである。
いまならまず一篇の陳情書に数百人の署名捺印をし、しかるべき役所に提出することで終わるところである。
慶応四年七月十五日、亀山藩からは宿場役人の魚庄、山興らに対して「以後は小助郷の農民たちに差別をしてはならぬ」
ときつい通達が出された。さらに町奉行、平井三二、原佐五太夫、代官の松本四郎右衛門、小川七平らはその職を免じられた。
彼らは間接に一揆の怨瑳の的になったこともあり、この処分によって亀山周辺の十四ケ村の民心は沈静したようである。
参考文献 柴田厚二郎「鈴鹿郡野史」
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