東海道の昔の話(144)
     坂下宿の旅の歌人 愛知厚顔  2005/6/2 投稿
 

一人の男が小竹屋の前にたたずみ、街道を行き来する旅人の群れを眺めている。ここ坂ノ下は東海道の第四十八番目の宿場、難路の鈴鹿峠の坂の下の山麓に位置し、八町二十七曲がりといわゆる峠坂を登り下りする旅人で賑わっている。

『よく晴れたな…、今日は峠越えでも降られることはないだろう』

もう秋も終わりなので、坂ノ下宿の周りも紅葉は終わり、冬の気配がはじまっている。この季節の峠越えは鈴鹿特有の天候の急変することで有名である。
小竹屋を出発する旅の僧も、この男に

『どうでしょう、峠の向こう側では雨に降られますか?』と聞いたが

『今日は一日晴れで大丈夫ですよ。しかし山は天気が急に変わるところですから、雨笠の支度は充分してください』

僧はそれを聞くと

『油衣を忘れている』

彼はすぐ小竹屋の番頭に頼んで真新しい雨衣を取り寄せた。かさばる蓑よりこのほうが軽いしまた激しい雨も通さない。僧は男に礼を云って坂道に向かった。宿の前は吾妻川が流れすぐ隣は高札場がある。ときどき旅人や土地の男が立ち止まり、高札に見入っている。このところ世情は安定し凶悪な犯罪者の潜入もない。坂ノ下宿は度重なる火災の被害を出しているので、いまは「火の用心」を訴える高札が掲げられている。

『かって慶安三年(1650)九月の大雨では宿場は流失し、壊滅状態
 になったといわれるが、すぐに東側のこの地に移転して再建
 され、いまの賑わいが戻ったという。人々のこの意気と努力
 はただ驚きだ。敬服するな…』

男はつぶやきながら眼を閉じる。

「それに比べてこの俺の生き方はいったい何だ。三十九歳の
 いままで街道の宿場をあちこち流浪してきただけではないのか…」

この宿場も二年になる。彼の名は須賀直八という。

「坂ノ下にきてもう二年か…、はじめは本陣の大竹屋で一年
 働き、つぎに旅籠の笹屋で働いたが、二ヶ月前から小竹屋
 の若主人に誘われるままこの本陣で働いてきたのだ」

小竹屋の若主人とは和歌と漢詩の会で知り合い誘われたのだ。
直八は武州日野の豪農の生まれだが、子供のころから和歌と漢詩に素質があり、私塾の師に勧められるまま江戸に上った。しかし目指した漢詩の大窪詩仏がすでに作詩の旅に出たことを知り、その跡を追うように直八も東海道を京に上ってきたのである。だが故郷を出るとき持参した路銀も底をつき、止むを得ず各地の宿場で働きながら、京都にいるはずの大窪詩仏を求めてきたのであった。
大窪詩仏は常陸国の人、若くして江戸に遊学し医学と儒学を学んだ。とくに力を入れたのが漢詩である。文政元年
(1818)には最初の作詩の旅をしたが、そのとき鈴鹿峠を近江の土山から伊勢の坂ノ下へ越えた。この初冬の旅を詠った漢詩が発表されると大評判となった。須賀直八は坂ノ下宿へ来てからも、いつも宿の仕事の合間にその詩をそらんじて口にした。詩仏の詩はちょうどいまごろの気候の変化を的確に捉えたものである。 

 【鈴鹿山 】        大窪詩仏

 発土山抵鈴鹿   土山を発して鈴鹿にいたる

 途中風雪大作   途中、風雪大いにおこる

悩殺詩思手幾又   詩恩を悩殺して手幾たびか組む

暁寒不畏客程遥   暁寒おそれず客程のはるかなるを

満山紅葉満天星   満山の紅葉、満天の星

錦繍堆中砕玉花   錦繍、堆中、玉花()を砕く 

 「腕組みをして詩作に没頭しているが、何度も腕を組みなおす。

 今朝の冷え込みは相当厳しいが、旅の道程が遠くても気になら

 ない。鈴鹿の山は一面の紅葉で空には雪が舞う。まるで錦の

 刺繍をした絹織物を堆く積み、玉花()を砕いたようだ。」

そして駕籠の中の寒さは身にこたえるので地酒を痛飲した。詩仏は酒の残りを駕籠かきを呼んで飲ませたが、もともと彼らはろくに衣類を身につけてないし蓑もない。褌ひとつで駕籠を担いでいる。じつに丈夫なものである。

詩仏の漢詩は見事に峠越えの情景を捉えていた。  

 

『実にすばらしい名詩だな。この俺もいつになったらこんな
 詩が詠めるようになるのか…』

いまの境遇では生活してゆくのが精一杯。人に親しまれる詩や和歌など
が作れそうもない。

直八は小竹屋の仕事が一段落すると宿場の往還を少しぶらぶら歩いてみた。宿場の中ほどの橋まできて道の北側に向かう。すこし石段を登って
曹洞宗法安寺に入る。坂下宿の「法安寺」

『おや直八さんでは?、ブツぶつ云いながらどうしたんです?』

声をかけられ彼は我にかえった。みると法安寺の和尚である。この人も坂下の歌と詩の会のメンバーであり、つい先夜の歌会で顔を合わせたばかりだ。

『ご住職、失礼しました。つい自分の悩みごとに夢中になり、
 気がついたらここに来ていました』

直八は素直に言った。

『貴方の悩みとはやはり詩作の悩みでしょう。』

『ずばりそうのとおりです。いまも詩仏の詩や歌を
 思い出し自分の才能の無さに嫌気がさしていたところです。』

和尚は

『この世知辛い世の中、直八さんのように詩歌の真髄を求めて
 旅をしている人は他にいません。私らから見ればうらや
 ましい境遇であり、贅沢な悩みですよ』

『先夜も小竹屋のご主人と話したのですが、貴方は漢詩
 よりは和歌、なかでも長歌に向いているのではないですか…』

ちょっと奥に上がってみてください。和尚は直八を庫裏の奥へ招きいれた。そして戸棚の中から一巻の和編本を取り出し、ぱらぱらと紙をめくって
いたが

『ああここだ』

と云って、一つの漢詩を指し示した。

『これは天台宗の僧侶だった六如上人が寛政のころに詠んだ詩
 ですよ。これは中国から伝えられた新理論の性霊主義の影響
 を受けているそうですが、私にはわかりません。』

  

     【孟冬、鈴鹿山を過グ】

 碧玉嶢巖黄纈林 碧玉の嶢巖(ザンガン)黄纈(コウケツ)の林

 雨斜飛処夕曦侵 雨、斜めに飛ぶところ夕曦(セキクン)

 山霊似欲嬲行客 山霊、行客をなぶらんと欲するに

 馬首乍晴馬尾陰 馬首たちまち晴れて馬尾くもる

 

『この詩はちょうどいまの季節を詠んだものですね。
 冬の初めに鈴鹿峠を越えた。険しくそそり立つ岩は
 まるで碧玉のよう、黄色に色ずいた樹木も絞り布に
 見えた。やがて激しい雨が降ったと思ったら、つぎは
 陽が射してくる。まるで山の霊が旅人をからかってい
 るようだ。馬の首の方は晴れているのに、尻尾の方は
 まだ曇っている。どうですか…この土地のいまの気候
 を見事に詠っていますね。』

『上人の見事な描写力はまったくすごい。私などとうていまだ
 足元にも及びませんね。おっしゃるとおり歌と長歌の方の
 勉強をすれば、少しはましなものが読めるかも…』

和尚はさらに別のページめくり

『この長歌はすぐそこの鈴鹿川の急流を詠ったものですが、
 先夜の直八さんの詩に似ています。そして貴方は漢詩よりも
 歌、いやそれよりも長歌にまとめたられたほうがずっと
 良くなると思うのですよ。』

それは〔五社百首〕と題した本の中に収められた長歌の一節であった。

      【鈴鹿瀬】

   八十瀬の浪にぬれぬれも

   古き鈴鹿の瀬をたずね

   祈る思いの深さおば

   天照る神も憐れとや

   空に見るとぞ仰ぎしを

   限りありける御代ならば

八十も瀬が立つといわれた鈴鹿川、この浪に衣の裾は濡れに濡れても、古い歴史を刻む鈴鹿川の瀬を訪ね、深い思いを祈らせる。そして天照大神も…
この美しい自然には神がたしかにおわします。
 

さらに和尚は別の紙を指した。それは人々に伝承されてきた古い歌であった。

    【催馬楽】

   鈴鹿川 八十瀬の滝を みな人の

   覚()ずるも著(シル)く 時にあえる

   時にあえるかも 

和尚はこの催馬楽を拍子をとって朗々と歌い出した。
直八はそれを聞きながら、またお邪魔に上がります、と云って静かに法安寺
を後にした。彼は和尚の言葉を真に受けたわけではないが、歌と長歌を作る
ほうが詩を詠むよりも疲労感がすくない。

「ひっとすると和尚や小竹屋の若主人の言葉が当たっているかも
 知れないな。ここは一つ本気になって歌や長歌もやってみるか…」

直八は小竹屋に戻ると、さっそく自分の部屋に入った。そして机の前にすわってゆっくりと筆をとった。そのままの姿勢でしばらく考えていたが、
やがて一気に筆を走らせたのである。

 

     【坂ノ下に住めるころ詠める】

    鈴鹿の山は  たたなはる

    山もたゆけく  落ちたぎつ

    川もさやけし  しなざかる

    越の国へゆ   ひむがしの

    国へに売ると  もの担い

    伊勢路に運ぶ  商人の

    行き交い絶えず 東の

    海津道より   岩橋の

    近江路さして  越え登る

    行き来も絶えず 度会の

    二大宮に    詣でくる

    四方の国人   玉敷の

    都の人も    姿衣

    花やぎよそひ  たおやめの

    袖引きつらね  朝宵に

    行き交ひ絶えず 賑ははしもよ

 

『フーン、初めてにしてはまあまあの出来だと思うが、
和尚はどういうか…』

直八はつぶやきながら筆を置いた。
のちにこの歌は歌集〔八十浦之玉〕に収録され、世に知られるところと

なった。
 

参考文献  大窪詩仏「西遊詩草巻下」、六如上人「六如庵詩鈔」

      「五社百首」、「八十浦之玉」、「催馬楽」

 
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