東海道の昔の話(146)
   亀山城主、石川家の家紋 愛知厚顔  2005/11/10 投稿
 

平成十六年の秋、亀山市で亀山宿場まつりが開催されました。
そのとき藩主交代の行列セレモニーが賑やかに行われ、旧藩主の家老や役人が市ケ坂で出迎える中、新しく入られる石川家の家臣、お女中など大勢の人たち。その中の殿様の乗った駕籠の屋根には、まごうことなく丸に笹竜胆(ササリンドウ)の家紋が光っていました。
わが国の代表的な家紋を「日本家紋大全」や「家紋全集」やらで調べてみますと、「源平藤橘」が日本四大姓とされています。源は源氏、平は平氏、そして藤原氏、橘氏です。その源氏系の家紋が「笹竜胆」ですが、源氏の流れは清和源氏、村上源氏、嵯峨源氏、宇多源氏など十六もの流れがあり、当然家紋も笹竜胆の系統から分かれていくのも自然です。



この清和源氏の笹竜胆は八幡太郎源義家あたりからよく知られていますが、これは「清和源氏義家流」とか「為義流」「義時流」とかの諸氏であり、鎌倉幕府を開いた源頼朝の後継者を称する奥州の和賀氏や、その一族の本堂氏らが笹竜胆派に属しているようです。歌舞伎の「勧進帳」や「曽我の仇討」などで、源氏を演じる役者の衣には笹竜胆が入っております。

ところで笹竜胆もさらに細かい家紋に分かれています。この中に
「丸に笹竜胆」といわれる家紋があり、さらに「石川竜胆」というのも石川氏ゆかりの家紋です。両方の家紋を比べてみると、少し違うのがわかります。私は伊勢亀山藩主、石川家の家紋はもちろん石川竜胆だと思っていたのですが、どうも加賀石川氏あたりで使われていたらしく、平成十六年の宿場祭りでのセレモニーの家紋を見る限り、亀山の石川城主は源氏家紋の「丸に笹竜胆」そのものでした。
 この丸に笹竜胆の家紋と石川家について、どういう関係だったのか…、
少し興味がわいたのをきっかけに、亀山出身の龍渓隠史、すなわち柴田厚二郎氏の研究を主に考察してみました。

竜胆は竜胆科に所属する薬用植物として知られています。
むかし藤原時代にはもっぱら鑑賞用として珍重され、これを公家たちは徽章や紋章にしたのが家紋の起源だと云われています。
もともとは薬用植物ですが、その味の苦さといったら
 『それこそ龍の胆汁を舐めたようだ』
というところからリンドウ、漢字では龍胆となったそうです。
日本薬局方でも竜胆の根や茎を薬用に供されると指定しています。わが国の植物学すなわち本草学の古書「証類本草」、「本草綱目」や「和漢三才図会」などにも薬草としての効能が紹介され、古い時代から人々に広く用いられていました。
また笹もどんな自然環境にも適応し、力強く生育していく植物なので、強靭な生き方を尊ぶ武人の家柄にふさわしいと思われたのでしょう。

そもそも伊勢亀山藩藩主の石川家は源平時代の源義家の五男、源義時に遡ります。ですから系譜ではこれは「義時流」に入るようです。
その源義時の三男、源義基は畿内河内国石川郡石川荘を領して居住し、その子孫が代々、笹竜胆を徽号に用いたのが起源のようですが、それを証するものがないのではっきりしません。しかし長く畿内に住み宮廷に伺候する機会も多かったうえ、同族の村上源氏や宇多源氏のように、竜胆を輿車や服飾の模様に用いて皇族や公家に接するのを見て、義時流の子孫たちも何かのきっかけで笹竜胆を徽号に用いるようになったのでしょう。
その源義基の子、源義兼は後白河法皇に仕え、その子の源頼房は土御門天皇に親しく仕えて、ともに正五位下に叙せられています。また二世たちもまた蔵人や式部丞に任じられ、一族の多くは宮廷に出入りを許されていました。

石川義基六世の孫、義忠は後醍醐天皇の笠置山の挙兵に参加しましたが、悲運にも同族の石川義純は戦死し、自分と子の石川時通は下野国に落ち延び、その地の有力武将の小山氏の庇護を受けます。この石川時通の子、石川朝成は外祖父の小山高朝に育てられ小山姓を名乗っていました。彼は成人したのち居を奥州に移します。その地で源氏の本家に協力し、平家側を打ち破ってしばしば武勲を挙げます。その功によって下野国の有力武将、小山氏から石川姓と紋章として二頭右巴を、正式に用いることを許されたようです。

当時の武士の風習として紋章の授与は戦場にては生命がけで戦い、名誉を重んじるもっとも誇りとしたのでしょう。後花園天皇の永享五年(1442) 常陸国佐竹郡に居住した長倉遠江守を追討するため、近隣の諸士たちを参集したとき、その宿陣の幕紋を網羅した描写が「羽継原合戦記」という書物にありますが、そのなかに「小山氏は右巴なり」あるいは「宇都宮氏は左巴なり云々」、 そして「笹竜胆は石川氏…」
との記述があります。これから判断すればこの当時、石川朝成の孫の下野権守守康が正式に石川の姓になっていて、また笹竜胆を家紋にして陣幕にしていたのは確実のようです。

この羽継原合戦の後、十一年ほど経過した文安三年(1446)、石川政康は三河国碧海郡志貴荘村に移ります。そしてこの地に居住すること十年、康正元年(1455)こんどは畿内の河内国に赴いたのですが、三河の地を忘れ難く数年も経ずして再び三河へ戻りました。
 「丸に笹竜胆の家紋は清和源氏共通の家紋だ」
という学者も多数いますが、沼田頼軸博士は「日本紋章学第一巻」で
亀山城主、石川氏がこの家紋の代表だと記述されてます。

 この丸に笹竜胆の家紋も石川家のすべての人が使っていたわけではなく、亀山城主、石川総慶のころ城の黒門内北側に居住していた石川総徳、彼は「花管のない四つの車竜胆」、その子たちはまた別の「花冠を鳥瞰した皿状に描いた家紋」でした。
江戸時代、江戸居住の石川氏同族または親族のうち、三田古川町の石川総集は「隅切り角内に細い葉三つの車竜胆」の家紋。牛込富士見馬場の石川左内は「丸に細葉三つの竜胆」。飯田町餅の木坂にいた石川左近将監は「丸に普通の五枚葉の笹竜胆」だけど、その真ん中に一個の花だけ花をつけています。また木挽町の石川内臓太は「丸に二葉竜胆」を用い、お互いに混乱を避けたようでした。

石川家累代の夫人たちは「竜胆菱」「枝竜胆」「蔓竜胆」などの変形を用いています。石川総徳夫人は「散らし竜胆」といわれるかなり変則的な紋様です。
これらの家紋がどんな模様なのか、図柄模様の資料がないので想像するしか判断ありませんが、笹竜胆の系統に入る代表的な家紋がいくつかあります。

西三河の石川氏は石川姓でもっとも有名です。この祖先は下野国の小山氏に養われていた小山朝成です。そして曾孫の政康は本願寺の蓮如上人に帰依し、上人に随時して三河小河城に移りここで石川の姓に戻りました。この石川氏は代々、真宗本願寺の有力者でもありました。
そして石川政康の子、親康は三河徳川の祖、松平親忠の家臣となり、以後は代々に松平家に仕えます。その曾孫の清兼になると松平宗家で筆頭家老になっています。
この石川清兼の嫡子が石川家成と云い、西三河でもっとも有力な武将となりました。これは三河一向一揆で徳川家康側についたこと、家成の母が家康の母と姉妹だったことが、信任される大きな要因となったようです。
徳川家康の遠江入城のとき、石川家成は掛川城主となり、天正八年(1580) に引退します。そして家康が関東八州を領し江戸に移ると子の康通がこれに従い、上総国鳴渡を領して石川宝樹と称されます。
また関ヶ原合戦では東軍に属して戦功があり、家康は彼に美濃大垣城を与えます。慶長十二年(1607)宝樹公が亡くなると、養子の忠義公が大久保長安事件のとばっちりで謹慎処分を受けます。しかし大阪冬の陣での功績で許され、近江膳所城主から伊勢亀山で城主となったのです。
 余談。
徳川家康の重臣でありながら豊臣秀吉のもとに走ったのが石川数正。
彼は秀吉に重んじられ信州松本で八万石の城主となりましたが、子の康長のとき大久保長安事件に連座して家は断絶しています。彼の家紋も笹竜胆です。
 いま全国で源氏系の笹竜胆を家紋とする姓は石川をはじめ多田、山崎、本間、上田、松野、宮川、岡本、飯塚などがあります。また源氏ゆかりの鎌倉市内でも、いたるところで笹竜胆の紋を見ることができます。
石川竜胆は石川県の金沢市周辺に多いと聞いています。


  参考文献  龍渓隠史「鈴鹿郡野史」 「日本家紋大全」

 
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