仙ケ岳は亀山市の最高峰だが、この山の南西の峰続きに低い笹に覆われたなだらかな御所平(850m)がある。
仙ケ岳は四季を通じて登山者が多く、人気の名峰だが、御所平は少し奥まった位置にあるうえ、近年は登降の登山道や木橋が荒れてきていて、いまでは極端にここを訪れる人も減っている。
しかし昔の人はこんな奥山のことも非常に詳しく知っていたのに驚くばかりである。
「勢陽五鈴遺響」という書物がある。
天保五年(1835)に著された伊勢国の地誌だが、平成の今日に至るまで、これを越える内容のものは見当たらない。この中に御所平の記述があり、その内容は他の地域のどの記述よりも詳細であり、いま見ても驚くほどである。
それはこの書物の著者、安岡親毅がこの御所平について、ひとかたならぬ思い入れがあった故、他よりも力を入れと推察される。
それは織田信長の本能寺の変の際、信長の息子で伊勢国司の北畠家に養子に出ていた織田信意が、この御所平に砦を構えて隠棲したとされる故事がある。この北畠信意が著者の安岡親毅の遠い祖先にあたるため、とくに親しみを持って記したらしい。
地名や距離など今日のものと合致しない点はあるが、地形図を片手に見比べながら一読するとけっこう面白い。ここでは原文を読みながら現在の山域とを比べてみたいと思う。
「御所ケ平ト云アリ、多気国司信意径廻ノ地ニシテ、
山渓ノ間暫ラク幽棲ス木造殿ト称シ故ニ御所平と云、
樵夫の伝ナリ此処ニ至ルハ池山村ヨリ山径アリ、
字ハ西矢原ヲ経テ五丁許、三箇所ニ深谷ノ淵アリ」
北畠信意は別名に木造殿とも御所殿とも云われたので御所ヶ平と云うのだが、あくまで地元の木樵の言い伝えと断わっている。
この山への登る路はいまの石谷川沿いの林道ではなく、池山から西矢原を経た山道だとすると、どうやらいまの石谷川を左下に見下ろす樵道があったらしい。これは林道とほぼ同じルートだ。
五丁ばかりの間の途中には三ケ所ほどの深い淵があるというが、この一丁は約百十bだが、それに換算しても実状と合致しない。
おそらく足で歩いた感覚距離であろう。ルートには幾つもの深淵や瀑布を高巻きしたりの難路のようである。
「是四丁登テ長者岩ト云巨岩アリ、其大岩ノ中ニ井泉
存ス、其次ニ烏帽子岩、形彷彿タリ次ニ八丈滝ト云
飛泉アリ、高五六丈許、傍ニ袈裟掛岩、長持石
各大巖ナリ」
さらにこれより四丁ほど登って長者岩という巨岩があり、その大岩の中に井泉が湧いているという、恐らくこれは石谷川源流右岸にあるラドン泉であろう。ここのラジュウム含有量は全国第三位、もちろん県下第一位といわれ、いまでも対岸の登山道から見ると、岩間から茶褐色の泉が流れ落ちているのが見られる。
つぎに烏帽子にそっくりな形の岩があり、さらに八丈滝という五六丈ばかりの滝があるそうだ。
ところが矢原川や石谷川には、白糸ノ滝や白雲ノ滝などの瀑布や頂礼井戸などの深い淵があり、どれが八丈滝かあるいはどれが烏帽子岩か長持岩はどれかと、無数に存在する滝と岩を見分けるのは困難である。
「スベリ石、小居場小仏と名ク、山坂アリ此所梢ク平坦
ニシテ七ツ釜炭焼場ト云ヲ経テ此処ヨリ至テ険難五六
丁許ヲ歴テ山岨ヲ攀下ル、瀬戸禿ト云処甚危路也」
このほかスベリ岩、小居場小仏と名のある奇岩も、同じような形の岩が多くて、いまでは特定が困難だが、昔の樵人は細かいところにまで注意をはらい、岩の一つ一つに愛着を感じていたようである。
さらに山坂を行くとようやく平坦となる。七ツ釜炭焼き場はいまもはっきり残っている。そこは葺谷が合流するすぐ下のあたり、釜すなわち深い淵が下から径二bm大から三b大のが四個連続、その上にもっとも大きい径六b大があり、さらに三b径が二個上に連なっている。そのすぐ左岸に炭焼き窯場があった。
この葺谷をつめて御所平に至る登山路があった。ひと昔は植林や榊、シキミを採取する人が登下りに利用していたが、いまは木橋も腐食して通行は困難となっている。
ここから険阻な道を五、六丁ばかりを登り、また急な山岨すなわち尾根を下ると瀬戸禿というところに出る。この険阻な尾根を登る理由はどうやら白雲ノ滝を高巻くためと思う。瀬戸禿とはいま瀬戸谷と呼ばれるあたりと思われる。そこは風化した花崗岩の砂礫で埋まり、足元がずるずると滑るはなはだ危険な道である。
禿とはガレ場のことである。
「白滝アリ、又五六丁許ヲ登テ舞床ト云アリ、又五六丁
ヲ歴テ萱原ノ平墟ノ地ナリ、是ヨリ仙ケ滝ハ北ニ望メ
リ針盤ヲ試ルニ坤位ニ至レリ、仙ケ嶽ハ西ニアリ此処
ヨリ正酉ニ圻テ山岨ノ難処ヲ下リ其処ニ御所滝ト云アリ、
高五丈許、左傍ニ滝ノ旧昔ノ水道ト云アリ」
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眼下に見える白滝というのは、いまの石谷川右岸の登山道が岩壁に鎖がある場所、その岩壁はかって五葉松採取の人が転落したり、老猿が落下したりの危険な場所だ。こから眼下に見える滝が白滝だろう。
この滝は岩壁の途中から川床に降りて近くからも眺められる。
舞床という場所はいまもはっきりしている。大堰堤のの手前にあるブナの二次林地帯であり、いまも多くの炭焼き窯跡が残る。
ここはかっての萱原の平坦地だったらしい。
ここから少し遡ると谷は左に御所谷と右に白谷となる。
方向磁石計(コンパス)で測ると仙ヶ瀧は北にあたるという。
いまは大堰堤に阻まれて山は見えない。この堰堤を右端から登ると正面に美しい大滝がある。この滝はいま石谷川の渓流ではで第一の十七bの落差、そして美しさを誇る堂々とした見事な滝である。登山者は白谷の大滝と呼ぶが、これが記述にある仙ケ滝に違いない。
この谷では白雲ノ滝や白糸ノ滝など、亀山市観光パンフレットに紹介されているが、私はこの滝こそ第一の滝だと思っている。
ここからは南西に向かって進む。仙ヶ岳は西に見える。
ここから真西に向かって山岨すなわち尾根の難所を下る。御所滝は入り口に五bの滝、その上に二段六b滝、さらに釜を持った十bと同じく十bのナメ滝がある。これらはいまも記述のとおりである。御所滝はこの釜の十b滝をいう。滝の左側に古い滝が流れた水跡が残る。
「此処ヨリ直ニ登ルニ砂石足ニ随テ転落テ路嶮ニシテ
左右ニ巨岩掩ヘリ、是御所ケ谷ノ喉口ナリ、一ノ谷
と名ク、老樹繁茂シテ甚多シ、樵夫云信意ノ植ラル
所ナリト伝ヘリ」
ここから急な直登となる。風化した花崗岩の砂礫は足にまとわり、ガラガラと落下して危険なことはいうまでもない。左右には巨岩が累々と重なる。これが御所ヶ谷の喉口の風景だが、これはいまもほとんど同じで変わらない。
一ノ谷といわれるところはいまでは不明。うっそうと老樹が繁茂していた御所谷の咽喉元というあたり、地元ではコシガ谷と言っている。ここでも樹木は北畠信意が植えたものと木樵が云っている。
「此処ヨリ二三谷ト云ヲ経テ雑樹葱鬱タリ漸ク攀登リテ
家老ケ平、小姓ケ平ト云地アリ、巽位ニ熊尾山聳タリ
北ハ此処ニ処リテ小岐須山の界ナリ」
この御所谷から御所平に登る道、これはいま相当荒れている。
二三谷は御所谷のどれかの枝谷だが、比定することは困難である。
ここを過ぎると、ようやく二次林の雑木も矮小となり、登り終えたところが平坦な御所平、そののなかで家老ヶ平、小姓ヶ平と云うところである。これはいまも同じ場所を指して呼ばれている。
ここから巽の方角すなわち南東に熊尾山が聳えている。北にはここから峰続きの小岐須山(小岐須峠)がある。
「是ヨリ直ニ登リテ御所の旧墟、封彊の威儀ヲ現ニ存セリ、
石壁散乱シ蒔沙アリ萱原平坦ノ地ニシテ北ニ望テ平ナリ、
此地東ハ山渓相畳ナリ、南ハ平ニシテ開リ、其次ニ渓間
二條ヲ渉リテ十二三許ヲ歴テ西ノ山岨ヲ攀登レハ仙ケ嶽
ナリ」
登り終えるとてすぐ近くに御所の旧砦跡があった場所に至る。
天保五年の当時は石壁が散在し蒔砂もあったらしいが、いまは何も痕跡は残っていない。学者によればシャクヤクが生えているところがそうだという。シャクヤクは中国が原産で中世に我が国に入ってきてから品種改良されたそうだ。その花は自然の自生はあり得ないことから、咲いているのは人、すなわち北畠信意が植えた証拠だというのだが、私はまだ確認していない。
このススキの原は平坦にして北に望んでずっと平坦、この地形と植相はいまも変わらない。ここから見ると東は山と深い谷が重畳している。南は平地にして開けている。そのつぎに谷間(鞍部のことだろう)を二回ほど越えて十二三丁、尾根をそのまま登ると仙ヶ岳の頂上に至る。
「小社村の山界ニ当レリ此潤ヲ御所ノ砂流シ谷ト名ク、
是ヨリ峯ニ登リ尽セバ近江国犬上郡多賀ハ乾位ニ望ム、
此頂ニ萱原アリ東ハ本州西ハ江州両国ノ界ナリ、
湖水比叡山、三上山、西に望メリ」
この山は小社村との山境に当たる。「御所ノ砂流し」と名付けられたのは、この谷から御所平の砦に蒔いた砂を採取したことからと思われる。これより頂上に峰に登れば、近江国犬上郡多賀大社は西北に望まれる。
また東は伊勢平野、西は近江と伊勢の境。琵琶湖や比叡山、が西の方に見えるとあるが、三上山はたぶん見えないと思う。
「また萱原二十四丁許歴テ谷アリ、又五六丁攀登リテ
絶頂ナリ、舟岩ト云、大谷アリ此処ニシテ近江一国
過半一望ノ中ニアリ、漸ク平地ニシテ掘切アリ是又
近江伊勢ノ界ナリ、是ヨリ南ハ悉ク本州の有ナリ」
また頂上から二十四丁ばかり隔て谷があり、そこから五六丁ばかり登ると舟岩という絶頂に至る。この岩はいま舟石と呼ばれ現在も同じ場所に鎮座している。場所は伊勢側にあるが、そこからは近江一国の半分が一望できたとあるが、いまは樹木が繁茂して展望は望めない。しかし伊勢の平野方面は抜群の展望が開ける。
さらに進むとようやく平地となり堀切りがある。これが近江と伊勢の境で南はことごとく伊勢の地である。
「北は小岐須山の麓ニ鳩ケ峯、向ヒヨリ石神社ノ奥山ニ
連綿セリ此地ヨリ絶境相尽テ帰途ニ赴ク、山潤幽仮ヲ
経テ小岐須村ニ至レリ」
北は小岐須峠の麓に鳩ケ峰、そして向かい側には石神社の奥山に連綿と続いている。この地から絶境は相尽き帰途につく。山々と深い谷は幽玄にしてようやく小岐須村に帰ることができる。
著者の安岡親毅はたぶん自分自身、実際にこの山や谷を歩き確認したのだろうと思う。
「愚按ニ北畠信意此地ニ経歴シテ隠棲人煙絶タル処ニ
何ノ拠アリシ、其本拠を詳ニセス、天正四年滅亡ノ後、
織田信雄其家系ヲ継ク、養父タルニ拠テ家臣滝川一益
ニ命シテ飯高郡大河内ニ迂シ、後ニ京都ニ帰住して
北畠信雅ト改名シテ逝去ス、凡テ棲居ノ地此処ニ
アルコトヲ不知トイヘトモ、曾テ聞ニ随ヒ余カ遠祖ナ
ルヲ哀慕シテ、険難千辛万苦ヲ凌テ、此ニ至ルニ及ヘリ」
私、安岡親毅が思うに、北畠信意がこんな人煙絶えた山奥に隠棲したなどと、人は何の根拠があって云うのだろうか…、その出典や根拠もはっきりしてない。
伊勢国司の北畠家が滅亡したのち、織田信雄(ノブカツ)が国司となった後、滝川一益に命じて大河内城に隠居させられた。そして後に名も北畠信雅と変え、京都に帰って逝去したという。安岡親毅はじめこの御所平に信意の棲居があった事実は知らなかったが、伝承を知るにおよんで信意が遠い祖先であることを哀慕し、艱難千辛万苦を忍んでこの地にやってきたと云う。
「山中異草薬品ヲ生ス、真簸蘆陽起石等ヲ採ルトイ
ヘトモ挙踵スルニ便ナラス、悉ク携ルニ難シ惜ヘシ」
山中には珍しい山野草や薬草の類も生えている。
また岩石の類も貴重なものや珍しいのもあるようだが、とにかく山奥の地であり、運搬に困るので誰も採らない。惜しいものである。
織田信意が御所ケ平に砦を築いて守りを固めたという史実は、安岡親毅が云っているようにどの史料にもない。しかし地元の太郎左衛門や次郎左衛門が北畠信意に協力したと言われ、ここで出土した刀の鍔や遺物の類、それらは池山の資料館に保存されているそうである。
参考文献 安岡親毅「勢陽五鈴遺響」
石水渓観光協会パンフレット「石水渓」
西尾寿一「鈴鹿の山と谷、第六巻」
愛知厚顔「仙鶏の山ふみ」
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