東海道の昔の話(151
  林羅山と山鹿素行 1愛知厚顔  2005/12/2 投稿
 


 天下分け目の関ヶ原合戦で東軍が勝利して足掛け十年、
徳川家康の天下はまだ磐石ではない。ことに昨今は家康の強引な政治手法を忌み嫌い、ひそかに大阪城に居城する豊臣秀頼に肩入れする武将がまだ潜在している。その空気を察した家康は大阪にいろいろと難癖をつけて圧力を加える。じっと我慢に我慢を重ねているが、淀君や秀頼をはじめ大野治良ら重臣たちの苛立ちは頂点に達している。
せっかく太平になったのにこれは何も起こらないとこを願う。一般庶民は痛切にそう思っている。
 
 そんな慶長十四年(1609)のある日、伊勢亀山城でちょっとした騒動があった。食録二百石の山鹿六右衛門高以(タカモチ)という側役が、役宅で同輩の士某に突然刀を抜いて切りかかったというのである。
 幸いすぐ止める人がいて士某も大事に至らなかったのだが、二人とも藩を支える士分である。このまま放置するわけにいかない。さっそく家老の関主馬正のもとに知らせが走った。
  『なんと、あの山鹿が刀を抜いたとは!、信じられぬ。』
主馬正は驚いた。それというのも戦国時代を潜り抜けた侍タイプではなく、山鹿六右衛門高以は亀山城内でも温厚誠実な人物であり、ことに
「孟子」や「論語」などに通じ、彼に講釈をさせると城中でも随一という評判だった。非番のときなど役宅で開かれる四書の会、この学習は評判は評判を呼んでいつも盛況だった。
  『学者の彼がどうして…、何かあったのか?』
主馬正は同じ家老の佐野主水、戸田甚之丞を呼び出し、彼らと同行して謹慎中の江ケ室の山鹿の役宅に出向いた。そこには加害者の山鹿と被害者の士某が畏まって平伏している。
  『山鹿、いったいどうしたのだ。』
仔細を聞こうとしたが、彼は
  『いや、老子の一節の解釈を巡って彼といささか意見が
   異なり、つい興奮して書物をふりかざしたところ、
   傍らにあった腰の物に手が触れたものです。
   御重役にわざわざお越しを給わることではあり
   ません。』
と悪びれる様子がない。また被害者の士某も
  『まったく山鹿氏のおっしゃるとおりです。
   つい興奮して立ち上がったため、刃に手が触れました。
   怪我もこのとおり殆どありません。なにとぞ山鹿氏に
   寛大なご処分をお願い申しあげます。』
右手の包帯を隠すようにして山鹿を庇う。

 関たち三人の重役は困ってしまった。明らかに山鹿六右衛門高以が刀を抜いて切りかかったに相違ないと思われたのだが、当事者のほか誰も目撃者もはっきり見たわけではない。これを表面に出してしまえば、山鹿に重い処分を下すことは明らかである。しかし処分するには惜しい。もう戦さも終わり太平の御代が来ようとするとき、これからの時代に必要なのは山鹿のような人材なのである。
  『さてどうしたものか…、』
 重役たちはいったん城に帰って、さらに島田右京、芝原将監、佐野内膳らの全役会議にはかった。この当時の亀山藩はこの六人が藩の組頭として、第二次の関一政藩主の亀山五万石の政権を動かしていた。
 関一政は天正十三年から十八年まで亀山城主として君臨したことがあり、ひとときは奥州や美濃に移封されていたが、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦後に、美濃土岐多羅城から再び亀山城主として戻ってきていた。
 
 六人の重役はそれぞれ意見を交わしあったが、これと云った妙策はでない。ことに士某の縁故につながる佐野内膳は山鹿の処分を強硬に主張する。これに対して関主馬主や島田右京は、日ごろから「論語」「孟子」の勉強会で山鹿の薫陶を受けていることから、彼をなんとか庇いたい。
けんけん諤々の議論が果てしなく続き、疲れて黙り込むという具合になる。そしてとうとう関主馬正が口を開いた。
  『議論していてもキリがない。ここはやはり殿のお耳に
   入れ、ご決断を仰いだほうが良いだろう。』
この一言が重役会議の結論となった。

 翌日、関主馬正は関一政に言上した。
  『実は山鹿と士某との間でいささか問題がありました。
   この件はなるべく詮索せずに他藩にお預け程度で
   済ませたいと私どもは考えますが、殿のお考えは
   いかがでしょうか?』
ことの関一政は家老から聞くより早く、小姓らの噂からすでに仔細を聞いていたが、彼は初めて聞いたような振りをして
  『いま山鹿の罪を追求して処分するのは簡単だが、
   それは少し早急に過ぎると思う。
   彼には少し遠くで反省する機会を与えたほうが良い
   だろう。そのあとはまた考えるとしよう。』
藩主の考えはすでに決まっていた。重役の気苦労は気憂に終わった。
一政は言葉を継いで
  『去る天正十八年(1590)蒲生氏郷公が会津若松城主に
   なったとき、我れは彼に従って福島の白河城に入った。
   我れの妻の湯淋邑は氏郷公につながる深い縁である。
   幸いにもいま会津には御子の松平忠郷公がおられるし、
   白河城主は旧知の町野長門守幸和どのがおられる。
    山鹿を預かってもらうにはここが一番よいだろう。』
 そして正式に山鹿六右衛門高以は亀山領から追放され、会津藩の預かりとなった。これで騒動は一応の決着をみたのである。

 山鹿六右衛門高以の身元を預けられた会津藩は、さっそく希望どおり白河城主二万八千石の町野長門幸和の屋敷を世話した。
 そこは会津鶴ケ城の近く本一之町にあった。町野氏は裕福な重役だったようで、亀山からはるばるやってきた山鹿六右衛門の人物と知識を見抜き、さっそく知行二百五十石を与えて客分として待遇した。
 伝承では山鹿高以は亀山では同輩を殺し、会津に逃亡してきたとか、
役職上で何か汚職めいたことをして会津にやってきたとか、いわれているが、やはり亀山城主の格別な計らいで会津に送られたという説が正しいだろう。そうでなければ会津に着いて日も浅いのに、亀山での知行以上の扶持で厚遇されるはずがない。
 そして屋敷内を解放し彼に論語や孟子の講義をさせた。ここでも彼の講義は評判を呼び大変な盛況であった。
  『良い人を見つけなさった。』
主の町野氏は城中でも会う人ごとに羨ましい言葉をかけられた。

 このようにして山鹿六右衛門高以は会津若松で楽しい学窮生活
をおくっていた。元和八年(1622)、彼に待望の男子が生まれた。これがのちの山鹿素行である。
 ところが間もなく元和の改革がはじまる。諸大名が淘汰されたり、罷免されたりの改革である。大久保長安、松平忠輝、福島正則、坂崎出羽守、の改易、最上義俊の家断絶、本多正純の改易と続く。その淘汰された理由は
一、戦争で徳川に敵対した
ニ、跡継ぎが絶えたもの
三、幕府の法度に違反
四、領地内の乱、治世に問題あるもの
五、その他の雑種
などであるが、この会津若松でも藩主、松平忠郷が卒されるとたちまち六十万石の領地没収、お家断絶になってしまった。

 この主君の悲運でも家老の町野長門守幸和は幸運だった。
彼は伝手を得て幕府直参に取り立てられ、五千石で与力に任命される。町野は
  『この機会に貴殿も幕府にご奉公されたらいかが?』
と山鹿六右衛門を誘ったが高以は丁重に
  『せっかくのお申し出なれどお断り申します。』
と断わっている。そして身代わりに兄の山鹿惣右衛門を推薦して上京させた。それというのも父の山鹿高以が、我が子の素行の素質を見抜き、自分が果たせなかった学業の完成、それを彼に賭けてみたいと願ったというのだが…。山鹿素行がわずか三才のときのことである。
                 (続く)

 
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