東海道の昔の話(156
片山神社の成立      愛知厚顔  2006/3/10 投稿
 

 
 旧東海道を歩いてゆくと坂下宿を過ぎ、鈴鹿川に沿って八丁二七曲がりと言われる鈴鹿峠へ道は折れる、そこに式内片山神社の標柱がある。大昔の坂下宿はこのあたりから源流にかけて存在したらしいが、慶安三年(1651)に洪水の被害にあい、翌年には駅家ごといまの場所に集団移転したといわれる。
 石の標柱を右に坂道を進むと間もなく片山神社である。
周囲の緑濃い自然は荘厳な雰囲気を保ち、実に神聖な神域であることを実感する。この神社は東海道を旅する人々から、特別な思いで敬われたらしく、いろいろな旅日記にも記載され、西国の諸大名からも多額の寄進を受けている。近年火災のため社殿が消失したと聞くが、いまはどうなっているのだろうか。

 この式内片山神社は鈴鹿大明神、あるいは鈴鹿御前、鈴鹿権現とも通称されたが、片山神社と呼ばれるようになるのは江戸時代中ごろかららしい。カタヤマとは斜面を現している山、あるいは周囲が山に囲まれ、一方が開けているような地形である。 この神社はずっとこの場所に鎮座されていたものと思っていた。ところが「三国地志」によればどうも違うようである。
 『社家伝に云う。もとは片山神社は三子山にあった。
  三ツ子とは鈴鹿嶽、武名嶽、高幡嶽である。祭神は瀬織津  姫、伊吹戸主、速佐須良姫の三神、寛永十六年にこの地に
  遷座し祀る。三神が出現したゆえ三ツ子の名がある。
また鈴鹿社は倭姫命を祭る。いま四神合祀して一つとなす。』
片山神社はもと三子山に鎮座していたのが、たびたびの水害や山火事にあい、永仁五年ごろいまの地に移ったという。
 その後、坂上田村麿命を合祀して五神と成す。亀山藩では関万鉄斎が天正十七年に七石を寄進、慶長年間にはさらに八石が加えられた。これは歴代藩主に至るまで続いた。また信楽代官の多罷尾氏も五石を寄進したそうである。
 
 ところが「亀山地方郷土史」や「大日本史」などを見ると、
どうやら片山神社は別の地にあったらしい。それは関町古厩字片山だというのである。古厩の地は鈴鹿川のむこう側、関宿の南になる。むかしは関近辺の集落とともに駅家郷を形成したそうだ。神社はこの古厩の南にある小山の麓にあり、いまアララギ様という祠があるあたりにあったとされる。
 これは江戸時代には八王子様と呼ばれ、そのころは男神と女神を合わせて八神を祀っていた。その後は宇気比神社と呼ばれたりしたが、明治の中ごろに片山神社となった。
 しかし明治四十五年の全国規模の大合祀により、関町木崎にある熊野皇大神社に合祀されている。

 さてこの二つの片山神社、古くから存在し千三百年前に編纂された〔延喜式〕に載っているのはどちらなのか…。式内社を調査された学者、E氏はつぎの見解を示されている。
 『鈴鹿峠の下の片山神社は江戸中期ごろからの名、しかも
  この場所は関宿から二里も山の中に入った僻地である。
  昔の生活基盤たる田畑や農地にも恵まれない。こんなところに集落が出来るとは考えられない。峠の上に集落が出来るのは、江戸幕府が街道の整備をしてからあと、交通の便が良くなってから。鈴鹿峠を越える道も平安時代になって、都が京都に移されたあとに開発された新しい道だと考えると、ここに式内社があったとは思われない。
   ちなみに峠(トウゲ)とは、もともと峠にあった神に手
  を合わせる、手向けるということから語源がある。
  鈴鹿峠の神社はこの峠神信仰からきた社だろうと推測が
  成り立つ。それは峠神に手向けられたであろう土師器や
  須恵器が、いまも峠一帯で発見されることからも伺える。』

 これに対し、関町字古厩の片山神社説には御巫清直「神社検録」「大日本史」「特選神名牒」があり、「伊勢式内神社検録」の記載では
 『古厩村の検地帳をみると、片山と字する田畑が六段八畝
  二十二歩ある。その地は村の坤位の二丁ばかりむこう、
  片山と称する小山の麓にある。その山の北陰に八王子と
  唱える産神の祠があり、かなり古くからあるらしく東むき
  に建っている。その社地の東の田畑は道を限って片山と字
  す。まわりはすっかり開墾されたが、この産神祠が片山神社であることは明らかである。』
 古代から都から東国にいたる街道、奈良時代より以前は柘植から加太へ加太越えによった。それが京都が都になってからは近江土山から鈴鹿峠を越える街道となった。だから関宿辺は交通路の交錯する要所であった。
 このため日本三関の一つの鈴鹿関が置かれたり、鈴鹿駅家、あるいは斎王行の赤坂頓宮が設けられたりした。
 この重要な関宿に近い古厩。
 この名前のとおり、古い時代から駅家が置かれ二十頭の馬疋がおかれたという。こんな交通の要所や農耕地としても恵まれていたので、早くから人々が住みついたらしい。それは周辺の古墳や遺跡から出土する遺物からも裏付けられる。また天平年間の甍も発見されており、この地にあった神社こそ式内片山神社であったと思われる。
鈴鹿峠の片山神社

 参考文献  国學院大学「式内社調査録」「三国地志」
       「九九五集」「亀山地方郷土史」
       亀山高校「鈴鹿峠の古代祭祀遺跡」

 
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