そうですか…、わざわざ伊勢の亀山からこんな難波までお出でくださったのですか。同じ俳諧の道を志す者として、まことに心強い味方です。また俳諧の心構えや発句論よりも、私の身の上話に興味がおありとは、これもまたご奇特なことです。それじゃ私のことやら俳諧の師のことなど、少しお話をしましょう。
私は寛文丑年(1661)の生まれです。
摂津伊丹在の油屋、上島宗春の第三番目の子供です。上の兄が身体が弱いので父はいつも
『お前が油屋を継ぐんだ。』
と口癖のように云っていましたが、私は兄たちと違い商売には向いてない、それは自分でもよく判っていました。その当時は子供でも親を助けたり、家業の手伝いや弟、妹の子守をするのは当たりです。ところが私はなんのかんのと理屈をこね、それらを適当にサボり、土蔵の片隅に入りきりです。
というのは、そこには発句や漢詩、読み本の類の書物が沢山あったからです。「後撰集」「古今集」などのほか「更級日記」「伊勢物語」いろいろな俳句集もありました。私は一人でそれらを片っ端から読みふけりました。そして自分でも漢詩らしきものや、和歌の端くれを作って満足していました。私がとくに興味を持ったのが俳諧でした。伊勢の大淀三千風の俳句本を手本にし、夢中になって俳句の世界に没頭しました。そんな様子を父が知らぬはずありません。ある日
『お前にはこの商売を継がせ
るのは無理だな…。』
父が溜息まじりに云います。そして
『俳句を詠んだのなら見せてみなさい。』
その一言でいやな商売の道に進まずに済むと、胸をなで下ろしたのです。私はまだ満足に漢字も書けない年令でしたが、嬉しさのあまりさっそく
一句をしたためて父に見せました。
こいこいと云へど蛍が飛んでゆく
父はこれを見て
『ほおッ…。』
驚いた顔をしたまま黙り込んでいます。やがて 『お前がここまで詠めるとは…。
たしか年も八つだったなあ。』
父も若いときは俳諧を少しやったことがあったのです。土蔵の書籍も父と祖父が集めたものでした。だから少しは俳句の善し悪しも判ったのでしょう。 『よし、これからはきちんとした師匠に
ついて勉強しなさい。』
こうしてしばらく近くの俳諧師についているときの俳句が
一声も七文字はあり郭公
この十二才の句をみて、師は松江重頼宗匠を紹介してくださり、私は重頼門下に入りました。このとき十三才でした。先生は父とも面識があり、商人としても大文字屋治右衛門で成功された方です。先生は松永貞徳の門下でもあり、実に清新な句を詠み、心の俳諧を読むよう強く指導されました。
巡礼の棒ばかり行く夏野かな (重頼)
先生の句です。背丈よりも高く夏草の生い茂る野原を巡礼が行く。夏草にかくれて姿は見えないが、手にしている長い杖の先だけが動いている。暑い夏の情景を見事に表現されていますね。同じころの門下に池西言水がいました。彼とは今日までずっと親交を結んでおります。
私はここで三年間、みっちり俳諧や作詩の勉強を重ねたのち、こんどは重頼先生の紹介で西山宗因先生に教えを受けることになります。宗因先生は当代きっての俳句の宗匠と云われた人です。私は十六才でした。
宗因先生は肥後出身で談林俳諧の祖です。
松永貞徳先生の俳諧を形式主義として、そこから脱却する道を探られます。それが自由軽妙な新風をおこし、こんにちの談林時代となったのです。談林とは壇林という仏教でいう僧侶の学寮を指し、優秀な学生が集うところを表します。先生の句に
されば茲に談林の木あり梅の花 (宗因)
この梅の花かげは、まったく俳諧修行するのにふわさわしい木陰である。自分がたどろうとする俳諧の方向に、多くの人材が集う様子を表しています。形式主義と批判された貞徳先生とも、宗因先生は非常に親密な間柄だったのには感心します。
旅先の伊勢関宿では貞徳先生と宗因先生が同宿し、句を交換しました。この句はいまも名句の評判ですね。あの「好色一代男」で評判の井原西鶴も宗因門下です。
こうして私は延宝六年(1678)に最初の句集を上梓しました。それが「当流籠抜」です。
私はまた旅が大好きです。当世では伊賀出身の松尾桃青(芭蕉)さんが旅を主題の俳句集を出し、喝采を浴びてます。
『人は東に芭蕉、西に鬼貫あり』
と呼んでいるようですが、私には芭蕉さんのような名句は生涯詠めないでしょう。私も旅が好きです。貞享三年(1686)に江戸まで下ったことがあります。二十六才のときでした。旅の目的は江戸在の小出伊勢守さま、このお屋敷に俳諧の師匠として出仕することでした。
六月二十五日に難波大阪を出発して七月三日に江戸着。けれども小出さまとの出仕条件が合わず、そのまま難波に帰ってきたのです。
その後は家族やら生活やらの雑用に追われ、発句の三昧ともいきません。折りにふれて書きとめたのが、貴方の目にも止まった「大悟物狂」「独言」などの句集や俳論でしょう。
こうして元禄三年(1690)の夏のいまに至っております。私はこの八月三十日に大阪を出て、いまの福島に引っ越しました。みずからを犬居士と呼んで
『誹道!非道!』
と吠えています。この犬は尻尾もなくまた頭もありません。この家は汐津橋という橋の近くです。前には軒の松風が流水に浸し、やや冷ややかに、後ろは野道が虫の音や野分の風が吹いて、自分の声もかすむようです。いまは闇夜ですが、やがて月も出てくるでしょう。それを楽しみに一句
闇がりの松の木さえも秋の風
長月一日に引っ越したとき、この家は狭くてまだ道具類も置く場所がありません。そこそこに棚を作り、昼ごろまでかかってようやく少し埃を掃き捨て、いま安座したばかりでした。
いかがでしょう。こんな生活なので好きな旅にも出られません。そこで戯れに「禁足の旅」を考えました。それは頭の中だけで旅する空想の旅です。ご一緒にそれを楽しみここに書いてみませんか?。題して「禁足の旅記」これでいきましょう。
【禁足の旅記】
九月。北窓の月は遠い山の暁にそむき、南面の秋の陽は軒をめぐること早い。我れに心あれば目出度たくもまた楽しい閑居なのだが、貧乏なので楽しみはほとんど期待できない。こうした寂寞とした秋の季節に、東の江戸の方に旅をしたいと願うのだが、遠くに旅して遊ぶことは老親の介護もあり、それは叶わぬ夢である。そこでこの閑居に居ながらにして、かって見た名所旧跡に想いを巡らせてみた。私の旅は九月二十日の夕暮れに大阪を出発し、伏見への舟に乗るところから始まる。
我が身に秋風寒し親ふたり
江口、佐田、伏見と上る。逢坂ノ関を越えて三井寺、大津、石山寺を過ぎる。
二十三日、近江の国とわかれて鈴鹿の峰につく。いつもはここから琵琶湖の湖水を振り返るのだが、きょうは霧が深くてはっきり見えない。
鬼貫が鈴鹿の坂に来たればや
霧に曇りて見えぬ水海
びっしょりと汗をかいて急坂を下る。また田村堂に登って甍の奉加をつく。ここは坂上田村麻呂を祀ったお社である。
六文か月をもらす田村堂
この道すがら廻りを見ると、野山の景色は新玉の空から移り変わったようだ。現世のことは天と神のみぞ知ると思って鈴鹿川を渡る。
一とせの鱸もさひけり鈴鹿川
おやッ、玄関に誰か声がすると思ったら友人の瓢海らしい。そうなら一緒に禁足の旅をいかが?、と誘ってみよう。彼も私も空しい亡骸は摂津ノ国に置いて、心は関宿の辺りに遊ぶだろう。野の草も茫洋と枯れかかった中を見れば、俳句の天才、瓢海も一句は詠むに違いない。
「禁足の旅記を一時中断」
さてようやく貴方の故郷、亀山までやってきました。このまま禁足の旅を続けると、江戸には十月二日ごろに到着しますね。江戸の宿は嵐雪亭に決めましょう。旅の全日程は十三日ほどでしょうか。亀山では少し心を込めた句を詠みたい。また桑名、尾張名古屋、江戸などでも土地にふさわしい句が出来ればよいのですが、どうも焦るとロクなものになりません。瓢海も来たことですから少し旅を休み、その間にこの春と夏に詠んだ句を少しご披露しましょう。
行水の捨てところなき虫の声
行水に使った水を捨てようとしたのですが、はやくもあちこちに虫の声が聞こえます。彼らを驚ろかせるに忍びず、水を捨てかねている。ざっとこんな情景なのですが、そのときの感じをそのまま句にしただけですね。
春の水ところどころに見ゆるかな
遠い山に霞がかかるのどかな春の野、柔らかな陽射しを浴び、菜の花や伸びはじめた草むらの間から、鈍く光る池の水や川の水がところどころに見える。これもなんの技巧も使わず、率直に感じたまま詠んだものです。こういう風景はこの近郊では珍しくもないのですが、伊勢のほうではどうなんでしょうか…。
ゆく水や竹に蝉なく相国寺
相国寺は京都にある臨済宗の古刹です。境内は緑が非常に濃く、その中を一筋の流れがあり、それに沿って一叢の竹がある。その青竹に蝉が止まって鳴いている。京都の神社仏閣はどこも竹林が多く、静かな思索ができるところです。あそこに一刻もおれば、多少は人様にお見せできる句が出来るのですが…、
ああ、あの声は年老いた私の両親ですね。そろそろ薬を飲ませる時間です。この介護もあって、こんな近くにいても京や奈良、まして伊勢までも気楽に旅ができません。貴方にはせっかく亀山からお越し頂きましたが、今日はこのあたりでいったん休みにしましょう。そして「禁足の旅記」で亀山から先の江戸までは、日をあらためて続けてみたいと思います。貴方に賛成して頂けるなら、どうか伊勢路の部分はご一緒に書いてみませんか。本日は大変失礼しました。そして有り難うございました。
参考文献: 上島鬼貫「禁足の旅記」
旺文社「古語辞典」
|