天武天皇672年に起こった古代最大の壬申の乱。
かねてから私はこの乱に興味を抱いていた。それというのも戦時中の小中学校での歴史教育では、天皇を神格視したせいもあるせいか、天皇家の内紛に関する乱の話は、まったく教えてもらえなかった。のちにこの乱が国を揺るがす大きな出来事だったのを知り、自分なりに興味をもって調べたりしたものである。
2006年5月20日、地元研究者と三重大学のお骨折りで大海人皇子側の軍が突破したコースをウオークする企画があることを教えられ、私もこれに参加することにした。JR名古屋駅から列車に乗ると、一宮から来たという一人の中高年の男性から話かけられた。この人は自他ともに認める壬申の乱フアンだという。困ったことにこの話に熱が入ると他の乗客の迷惑も考えずに
『大海人皇子に味方した尾張の国司守のチイサコベ
のムラジが自殺した理由は私はこう考える。』
と滔々とまくしたてる。年をとると人は声も大きくなるが、加太駅まで延々としゃべりまくられたのには辟易してしまった。
JR加太駅にはすでに大勢の参加者がいた。本日の見所は大海人皇子側の軍が、伊賀の柘植から加太を経て関処までの難所を踏破した足跡をたどり、古街道道はどこを通ったのか…、金鋳場遺跡は何故存在するのか…、笹ケ平古墳の主は誰なのか…、鈴鹿関や赤坂頓宮はどこなのか…などである。出発時間まで約1時間もある。それまでに鹿伏兎城跡に登ってみようと、場所を主催の人に聞いてみると、鹿伏城跡はウオークで立ち寄る、とのことだったが、山がきついということで取りやめになった。私は一人で神福寺の裏から急いで城跡まで往復するつもりだったが、結局登る道がわからず断念した。ウオークの一行はまずすぐ近くにある善光寺の本尊と由緒、沿革について亀山市教育委員会のK氏から説明を受けた。この寺は隣の神福寺が管理している。本尊の阿弥陀三尊は造像年代ははっきりしないが、善光寺式と呼ばれる様式であり、肉身に金泥、衣部は古式で幅20cmの中央材に左右端材、上端材を寄せてある。光脊も手作りの跡が見られ、各所にタガネ技術を駆使している。また江戸時代の作と想定される中尊、脇尊像の仏様も拝顔できた。そしてこの背後の山頂にある鹿伏兎城跡と関氏の一族、鹿伏兎氏の興亡についても、お話をうかがうことができた。
前日の天気予報で悪天のはずだったが、ウオークには100人を越える熱心な人々が参加、車の往来が激しい大和伊賀街道の国道脇をひたすら歩く。日本書記の記述では
『伊賀と伊勢の境となる大山(鈴鹿山地の加太越え)
を越え、伊勢の鈴鹿(鈴鹿郡)に着いた。』
この関で伊勢国司の三宅連石床らに向かえられ、500人の兵を鈴鹿峠に差し向け山道を塞いだとある。いま歩いている川沿いの大和伊賀街道を本当に大海人皇子の軍が突破したのか…、学者のなかには
『柘植からゾロ峠を越えてバンドウに至る道だ』
いう人もある。幕府の顧問学者だった林羅山もその一人、バンドウ越えは大和街道よりは川を横切ることもなく、峠もそれほど険阻でもない、それに伊賀の阿山郡大山田寄りに、大友皇子側の領地もあったのがその理由らしいという。後年の戦国時代にこの一帯の十二郷を支配した平氏の流れをくむ関氏の支族、鹿伏兎氏についても地元研究者から説明があった。この名門も信長のため衰亡の道に追いやられる。
濃いガスがまだ錫杖ケ岳の山頂を覆い隠したままだ。伊賀との境にある霊山はすっかり晴れているのに…。歩いていると小雨が降ったり止んだり蒸し暑い。つぎに一行は笹ケ平古墳に案内された。場所は街道から左の山の斜面を登った中腹にある。いままで各地で古墳を沢山見てきたが、こんな険しい山の中腹に造られたのは初めてみた。三重大学のY先生の説明を聞く。
古墳が発見されてまだ日が浅く本格調査はこれからという。しっかりした石組みで東の街道を見下ろすように墳丘の入り口がる。平野や人家に近い里山などの古墳ではない。なにか街道にゆかりがある人たちと縁があると推定される。古墳の上蓋の大きな花崗岩は折れて陥没しているが、その石の下には何か収穫があると期待されている。この山地の中にはまだほかにも古墳の存在が確認されているという。
この山も杉桧の植林帯だ。どこでもそうだがここも手入れが行き届いてない。安い外国材が大量に輸入される現実、間伐や枝打ち下草刈りなど人手をかけても採算がとれないのだろう。その結果が良い樹木が生育せず山の保水力が無くなる。やがて大雨が森を破壊しガケ崩れなどの災害を引き起こす。古墳の周囲に広がる暗い森を見まわし、少し暗然とした気持ちになる。
つぎに一行は金場にやってきた。金(カネ)という名は金銀や鉄など、昔に鉱石を掘りだしたり精錬したりした場所にゆかりのところが多い。この古子川と呼ばれる上流で発見されたという鉱滓、それを亀山市のM氏が見せてくれる。三重大学の先生の話では、古代に鉄鉱石が掘り出され鋳場跡らしいのもあるという。いまも鋳鉄屑(カナグソ)が落ちている。どうしてこんな場所に鋳場あるのか…はっきりしないが、近くにあった鹿伏兎氏の枝城との関係が深く、各種の武器や農具の生産に一役かっていたらしい。そのためか近くの集落は金場と呼ばれ、そこには「金谷」性の人が多いらしい。
加太川に沿って大和街道をひたすら歩く。ウオーク一行は海洋センター南側の丘陵上の竹ヤブに立ち寄る。ここには古代のの道の跡が明瞭に残っており、丘陵を人工的に切り落とした、いわゆる「切り通し」もあった。Y先生のお話では
『江戸時代の絵図でもこの場所に街道が描かれており、
このとおりはっきり形も確認できる。
おそらく大海人皇子の軍兵もこの古代の道を通った
のでしょう。』
と、道とおぼしき側の土手の土を靴で蹴ったところ、石組らしいのが出てきて驚いた。
つぎに関観音山の山麓にある古代の鈴鹿関の西城壁跡と推定される場所に至る。この冬、テレビのニュースを見ていたら
『いままで所在が判らなかった鈴鹿の関を発見か?』
と報道され、大変驚いたものだ。今後の調査ではっきりすると思われるが、これが鈴鹿の関の一部だとすれば、これこそ世紀の大発見である。古代の鈴鹿関は古代史を解明する重要な遺跡である。亀山市教育委員会の発掘調査では、古代瓦や土累痕跡が確認された由。続日本紀の記述を見ると、関所は外城に西城と東城を持つ大規模なもの。この発掘場所はおそらく西城壁の一部であろういう。すると関全体ではいまの関宿の新所町をすっぽり、取り込むぐらいの大規模なものとなる。
『個人の通行人を取り締まるよりも、東国の反乱など
に備えて軍隊を常駐させる目的が主、まさに
国家の命運をかけたプロジェクトなので大規模
なものになったのでしょう。』
亀山市のK氏の説明。
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なおこの場所の発見者M氏も本日同行されていた。A,B,C,D地点で示された発掘現場、そこは青いシートで覆われている。付近はあざやかなツツジの花が咲き乱れ、新緑が萌える美しい環境である。遠い昔にこの関を守った人々、
「その人たちはどんな思いでこの地で過ごした
のだろうか…、」
このあとの関宿散策はもう何回ともなく訪問している。私は一行と別れて一人、汗を拭き拭き観音山を登ることにした。雨も上がり青空と涼しさが戻ってきた。私ははるかな古代に想いを馳せて登っていった。それにしても地元の人のウオーク参加が少ないようだ。せっかくの良い機会なのにもっと関心を持ってほしいと思うのだが…。
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