私は松平下総守忠明と申します。
合戦に明け暮れた戦国時代から徳川幕府が成立したころにかけ、私は二つの亀山城の城主を努めました。この当時、亀山という名前の城は丹波と伊勢、そして三河作手にありましたが、私はこのうち作手と伊勢の二つの亀山城主を経験することができました。私にとってまことに不思議な運命と思う次第です。
私は三河の有力な豪族、奥平氏の出で、生まれは天正11年(1583)三河新城です。幼名を清匡と云いました。母は徳川家康の長女です。その縁もあって10歳のとき兄と一緒に徳川家康の養子となり、家康から松平の姓を受けました。兄の死にともない関東での7千石の領主となり、慶長4年に松平下総守忠明として従五位に任じられたのです。18才のとき関ヶ原合戦に参加、家康の本陣を守備して戦功を立てました。その功により20才のとき父祖、奥平氏の出身地の三河作手にて1万5千石を賜りました。
こうして先祖の地に戻ったのはよいのですが、着任してみると居城の亀山城は荒れ果てみる影もありません。それは30年ほど前に当時の作手亀山城主だった奥平貞能が合戦に破れ、城を放棄したためでした。それ以来約30年間は無住の城だったのです。私はさっそくこの亀山城の修復にかかりました。父祖の地とは云っても土地の人とのつながりはなく、関東から引き連れてきた部下は土地に不慣れです。私は領主の肩書き権威を捨て領民に心を開くよう気配りをしました。最初の協力者は須山村の須山八兵衛と市場村の白井藤衛門、北畑村の権田久兵衛でした。彼らの懸命な協力があって、「クラヤシキ」と呼ばれる丘に亀山城を完成させることができたのです。
この亀山城は海抜547mの丘陵の上にあり、城の周囲は水田が広がっている平山城です。それは本丸を中心に各種の曲輪、土塁、空壕をめぐらし、小さいながらも堅固な守りの城が出来たと自画自賛しております。平成の今日も、本丸から東へは長径60m、短径28mの楕円形で、周囲に土塁をめぐらし、二の丸と西曲輪へ出るところに虎口(出入り口)がこの土塁は残っております。いま城跡は公園風に整備され人々の憩の場になっています。伊勢亀山の皆様も機会があればぜひ訪問されるよう希望します。
こうして三河作手の亀山城が私の居城となりました。また領内にはかって長篠城の合戦で甲斐の武田軍に囲まれたとき、城から脱出して状況を織田徳川方に報告した密使の鈴木金七郎がまだ存命だったので、彼を召しだして200石を与えて30年前の功労をねぎらいました。また領内をくまなく歩き領民と親しく言葉を交わすように努めました。かくしてだんだんと領民との間もうまくいったと思います。幸いにも段戸山の山中で砂金を発見し、金の採取に成功したことです。これで三河作手藩の財政もゆとりができました。
私は父祖の土地、作手の亀山城にもっと居住していたかったのですが、8年後の慶長15年(1610)に幕府の命で伊勢亀山城5万石の城主に命じられたのです。幕府も私の後髪を引かれる思いを察したのか、作手領もそのまま伊勢亀山藩の飛び地として賜わりました。私はほんとうに嬉しかったことを覚えています。
伊勢亀山城は文永2年(1265)、いまの亀山市若山町に関実忠が築城したのが始まりとされています。元亀4年(1573)織田信長の侵攻によって当時の城主関盛信が追放され、長く続いた関氏の支配が終わりました。天正18年(1590)には峯城から岡本宗憲が入り、改築増築して居城としました。この岡本宗憲が伊勢亀山城主の初代城主とされています。のちに三宅康貞が入ったり、また関一政が美濃土岐多羅から戻ってきたり、めまぐるしく主人が変わったようです。私が入場する前は城の傷みがひどかったのですが、家康の命令で岡部内膳正盛の手で修理が完成したばかりでした。これも大阪城の豊臣秀頼に対抗する戦略上の拠点だったからです。
私、松平下総守忠明の母は徳川家康の長女の盛姫です。家康からみると私は外孫にあたります。この縁でこの伊勢亀山城主に任じられたようでした。前任者の関一政は山陰の黒阪城に転任され、このときから400年にわたる関氏と伊勢亀山城との縁が切れました。幕府の命とは云え関氏にとってはまことに気の毒なことです。
伊勢亀山城は岡本氏の築城が原型になっており、のちの城主の代には本丸、二の丸、三の丸も整備され、また本丸の北端には天守に代わって三重櫓が築造されて別名を胡蝶城と呼ばれたそうです。現存する多門櫓は寛永10年(1633)ごろの築造らしいですが、いまは三重県から文化財に指定をされてます。、また近年には二之丸帯曲輪や埋門跡も発掘され、復元整備も行われたと聞いております。
私が伊勢亀山城に入って4年ほど経過した慶長19年秋のある日、桑名城主の本多忠政から内密の連絡が入りました。徳川と大阪城との雲ゆきが嶮しいというのです。私は部下に命じて密かに合戦の準備をさせました。10月2日、幕府から本多忠政を経由して大阪城へ出撃の命令が届きました。私は亀山藩内を総動員して軍を編成し、桑名の本多軍と合流して近江勢田に進撃しました。
10月14日には美濃大垣城主の石川忠総も亀山城下を通って西に向かいます。彼は慶安寛文年間の亀山城主、石川昌勝の祖父であり、のちに明治維新まで続く石川家の基になる人です。このときの大阪方と徳川方の合戦はいわゆる大阪冬の陣です。このときは和議がなっていったん戦は収束しました。5年後の元和元年(1619)、大阪夏の陣の戦が起こります。4月6日、私は軍を引き連れて鳥羽伏見方面に進軍しました。この留守の間、江戸にあった徳川家康も大阪に赴く途中、亀山城にて京都所司代の板倉勝重から戦況報告を聞いております。
4月17日、徳川家康の一行は亀山城を出発し近江水口に向かいます。私は家康軍と合流し、5月に大和口から大阪城めがけて軍を進め、国分南山において大阪方の猛将、後藤基次を破りました。さらに進んで道明寺、藤井寺の敵を蹴散らし、あの真田幸村と対戦してこれを破りました。そして大阪城に迫って兵を督励しついに城内に突入、淀君と秀頼は自害して落城しました。こうして徳川家康のライバルが滅亡します。
この功績によって元和元年6月には5万石を加増され、大阪城10万石に封じられたのです。こうして私の伊勢亀山城の治世は5年間で終わりました。この5年間、大阪冬と夏の陣の戦いやら何やらに追われ、伊勢亀山ではほとんど目立つ実績を残すことができませんでした。これは後々まで悔やまれてなりません。この亀山城も城の管理を四日市代官の水谷光勝が勤め、元和5年には三宅康信が4代目の城主として入城します。このころ私は更に2万石を加増され大和国郡山城の12万石の主となっていました。その後も徳川家の縁続きということで順調に政治の中核に参画し、江戸城の三代将軍家光公に直接仕えました。
寛永16年には播磨国姫路城に移って18万石の大名となりました。
そして正保元年(1644)3月江戸において没したのです。享年62才でした。我が生涯を省みるとき20才で三河作手の亀山城、その8年後には同じ名前の伊勢の亀山城の主となったこと、この幸先の縁が自分のその後の運命を開いたものと思っています。
伊勢亀山の皆様、どうか私、松平下総守忠明という城主がいたことを忘れないでください。
参孝文献: 「作手村史」 作手村観光協会「歴史の小径」
亀山市パンフレット「伊勢亀山城」
柴田厚二郎「鈴鹿郡野史」
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