厚顔:『このたびは冥府からお越しを頂き、まことに恐縮です。』
さて平成18年NHKの大河ドラマで貴方は大活躍されましたが、
感想はいかがでしたか?』
一豊:『ストーリー展開の概要はあのとおりでしょう。細かいことを指摘すれば
きりがありません。やはり物語ですね。それに俳優もそれなりに
演じておられ、私も結構楽しんみましたよ。』
厚顔:『最近、伊勢の亀山で貴方が築いたと思われる砦跡が発掘されました。
覚えておられますか
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一豊:『あれは本能寺の変のあと、天正11年2月(1583)に伊勢の滝川一益を
攻めたとき、亀山城は滝川方の佐治新助が守備しておりました。
亀山城は守りの堅く敵はなかなか落城しません。そこで私は城を包囲
する土塁をいくつか築きました。たぶんその一つでしょう。』
厚顔:『地元の教育委員会の見解では、出土した土器などから15世紀から
16世紀、土塁の規模から兵士を一時的に駐留するための構造で
あり、この時期の合戦からみて貴方の築造にほぼ間違いないそうです。』
一豊:『あの頃わたしは39才でした。織田信長の中国攻めの指揮官、羽柴秀吉軍
の一員として毛利軍との激しい合戦、本能寺の変と明智光秀との合戦と
戦いに明け暮れる日々でした。そして柴田勝家、滝川一益と秀吉の反目
から冬の伊勢攻撃に秀吉本隊に参加し、近江の山女原から安楽越えで伊勢
に侵攻したのですが、この安楽越えの戦では嶮しい渓谷沿い山道を
通過するのに難渋しました。』
厚顔:『馬落しの険と呼ばれるところですね。貴方がたは地元の猟師の経験を生かして
無事に通過しました。』
一豊:『はい。安楽越えの攻撃隊先鋒は蒲生氏郷、それに関盛信と次男の一政でした。
関父子は亀山城主でしたが、この正月に家老の葉若藤左衛門を従え、安土城
の秀吉の許へ賀正の挨拶に出向いた不在の間、留守居役の岩間八左衛門が
国府佐渡守盛邑と子の次郎四郎盛種をそそのかし、主君に反旗を翻した
のです。』
厚顔:『亀山城主の関盛信と次男は羽柴秀吉党であり、織田信雄の系列に続していて、
三男の盛清勝蔵は柴田勝家に仕えたこともあり、同じ心の岩間八左衛門と
柴田勝家、滝川一駅側に味方する機会を待っていた。亀山関家では家督争い
が両派に分裂する要因を生んだわけですね。』
一豊:『はい。柴田、滝川は織田信孝を首領とする系列です。三男の関盛清と岩間
はさらに一族の七郎左衛門や豊田越後、荻野某、草川某など43人が
結束し滝川に味方する機会を狙っていたのです。』
厚顔:『当時の関家中では関盛信は天下の形勢を見ながら、秀吉の人物や未来像を
観察していたそうです。』
一豊:『そうらしい。岩間八左衛門は情勢の判断をあやまり、柴田や滝川の持つ
鉄砲隊の戦力を過大に信用したようです』
厚顔:『岩間八左衛門は国府佐渡守盛邑、子の次郎四郎盛種と共に滝川の兵を先導し
て、峰城にいた岡本宗憲を南伊勢に駆逐し、その後に滝川詮益に守らせ
滝川臣下の佐治新助を亀山城の守備に、関の旧城には滝川法忠を置き、
さらに鹿伏兎右馬介定基や林保春を伊賀口に派遣して守備にあてたのですね。』
一豊:『いかに強い守備兵力でも分散すれば不利です。それを滝川軍もよく知っていて
険阻な安楽川沿いの防御線を強化したのですよ。』
厚顔:『天正11年(1583)2月10日、近江安土城を発して亀山城下に迫りました。
亀山、峰、関の三城の守りは堅固でした。』
一豊:『この三城の包囲がほぼ完了したのが2月16日ごろでした。そして葉若村
の西部に土砦を築いたのです。この砦が今回発掘されたものでしょう。』
厚顔:『城下の一帯は秀吉軍の兵で充満しました。この戦いで反逆者の岩間八左衛門
は滝川法忠と関の城でした。たぶん貴方がた秀吉軍は鈴鹿峠から来襲する
と予想し、戦略を立てていたけどそれがまんまと外れてしまった。』
一豊:『そう。私たち秀吉軍は安楽越えから池山、そして原尾村から二手に別れ
一隊は白木村へ進出しここの砦と小川村の砦を陥落させた。もう一隊は
住山村に入りこの南端に土塁を築きました。これで亀山城は孤立して
しまったのです。』
厚顔:『3月3日、滝川側の佐治新助の部下の近江新六は鉄砲隊と槍隊を動員し、
亀山城を脱出し関城の救援に赴いたのですが失敗しました。』
一豊:『あれはもう死に者狂い反撃だと思います。我がほうも細川忠興臣下の
沢村宇右衛門が城西の新福寺山の下で戦死しました。そして米田是政という
若干25才の男が兵を励まし態勢を立て直した。あとで秀吉はこの男を厚く
褒賞しましたね。』
厚顔:『このとき打って出た城兵は野村蛇天神の付近で殲滅させられました。』
一豊:『そう。あとは混戦です。19才の加藤清正や木村十三郎らが槍をもって
佐治新助の家来、近江新六を刺し、新福寺山は完全に羽柴秀吉軍が占領
しました。』
厚顔:『貴方はこの戦いでは、NHKドラマで武田鉄矢が扮する五藤吉兵衛を
を失っていますが…』
一豊:『はい。私は亀山城に突入し東南隅にある櫓を激しい抵抗を排除して
占領しました。これがきっかけで各隊は城に突入、陥落したのです。この戦で
私たちも多くの犠牲者をだしました。武田鉄矢さんもその一人ですね。』
厚顔:『山内家御家中名誉記を拝見しますと、貴方と兵士は城の巽にある櫓の攻撃
では、数名の先陣が手ぬぐいを槍に巻き、これを足溜めとしてつぎつぎに乗り越え
て突入、貴方もこれに乗って突入されたとあります。』
厚顔:『とにかく激しい戦でした。滝川一益は城を開いて長島に去り、国府城も
降伏しました。』
一豊:『羽柴秀吉はこの亀山城を織田信雄にゆだね、兵をまとめて関、峰の城の攻撃
に向かいました。』
厚顔:『このあとも峰城では激しい抵抗にあいましたが、ときの勢いは止められず
部下の諸蒋に伊勢攻略を任せ、羽柴秀吉は柴田勝家との決戦に出発していき
ました。』
一豊:『この後、滝川一益は降伏し、再び秀吉に取り立てられ5千石の武将になります。
そして小牧長久手の合戦では、峰城を守る甥の滝川詮益と敵味方に別れて
戦をする皮肉な運命をたどってます。』
厚顔:『滝川一益の生涯も波乱に富んでいますが、山内一豊の生涯も実に波乱万丈ですね。
私の家は貴方の生誕地から歩いてすぐ近くです。これも不思議な縁とか云いよう
がありません。』
一豊:『私の生誕地は愛知県岩倉市と一宮市木曽川町黒田の両方の説があるようですね。』
厚顔:『そうです。けど私は岩倉市民ですから岩倉生誕説に賛同しています。一番の
物的証拠は生誕地に近い神明生田神社の棟札が発見されたことです。
それには
天文二十三年甲寅
(表)奉造営神明生田神社正殿広栄所
八月二十□ 日 岩倉村
(裏)山内但馬守盛豊卿御家武運長久祈所
神主 増田助太夫
天文23年(1554)に貴方のお父上の盛豊が神社の造営を行っております。
当時お父上は岩倉城主の織田信安に仕えており、貴方の誕生が天文14年
などから考察すれば、岩倉城下で出生されたことは間違いありませんね。』
一豊:『私としてはどちらでもよく、今後の学者の研究に任せたほうがよいと
思ったいます。』
厚顔:『はい。いまは山内一豊に縁のある市町村が「一豊サミット」を開いていて、
岩倉、一宮、長浜、掛川、高知などと持ち回りで開催されています。』
厚顔:『本日は冥府ははるばるお出でくださり、まことに有難うございました。
つぎのつぎの機会にはご夫人の実像など、お伺いしたいと存じます。』
一豊:『はいではそれを楽しみに失礼します。』
参考文献 岩倉市「岩倉市史上巻」 柴田厚二郎「鈴鹿郡野史」
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