東海道の昔の話(17)
   太岡寺縄手の悲劇  愛知厚顔   元会社員  2003/9/15投稿
 
 元禄六年(1694)八月二十六日ごろの話。

 名古屋尾張藩に出仕していた松平助之進という下級武士がいた。
彼はなんらかの不始末が理由で御改易になったのち、息子と二人で京都に住むようになった。ところが息子が大きくなったので、京都の黒谷のさる寺で修行させることにした。そのために尾張名古屋にいる妻のところへ手紙を出し、
  『このたび息子がさる大寺で奉公がかなうことになった、
   ついては着物、大小の刀、金子などを送ってほしい』
と求めた。
 この妻はさんざん苦労してこれらを工面し、誰か京都につかわして持参してもらおうとするが、頼む人がまったくいない。
 しかたがないので自分の兄の作兵衛に頼んだ。作兵衛は名古屋長者町(現在も衣料専門店が多い)で着物の商売をしていたが、
  『それならちょうどよい、近いうちに京都へ仕入れに
   上るので、ついでに届けてやろう』
仕入れの商談と友人を訪問する用事もあり、早いほうがよいとさっそく旅支度を整えて出発していった。
 
 名古屋から伊勢路に入って旅を続けるうち、亀山宿と関宿の中間あたりで日が暮れてしまった。ここは太岡寺縄手という堤である。
明るいうちは街道も賑わっていたのだが、暗くなると人跡も稀になってしまった。左手は鈴鹿川の瀬がわびしく光り、はるか右の山々からは冷たい風が吹き下ろす。街道の両側には松並木が黒々延々と続いている。じつにわびしい場所である。
 作兵衛はなにか不気味な予感がしたのか、用心を重ねながら急ぎ足で歩いていった。やがて堤の中ほどにきたとき、何者からこっそりと忍び寄って
  『……』
物も言わずに切りかかってきた。不意をつかれた彼も手にした刀で抵抗したが、やがて肩と腕を切られて昏倒してしまった。それを見た賊は作兵衛に止めを刺して殺してしまった。
そして着物、大小、金子など、荷物の全部を盗って逃げ去ったのである。

 翌日、近くの村の人があわれな遺体を発見した。
  『いったいどこの誰だろう?』
役人の検視を受けたのち、三日間さらしおかれて被害者の身元を捜したけれど、一向にどこの国の誰かも判らない。とうとう土の中に埋葬して札を立て供養してしまった。

 しかし名古屋の妻は、夫からも便りがなく兄の作兵衛もいっこうに帰ってこないのを不審に思った。そしてまもなくこの太岡寺縄手の殺人が旅人の噂となり、世間の人に知れてきた。やがて名古屋にも伝わってきた。
 そこで作兵衛の住む町内の人たちも
  『ひょっとすると…』
と同情し、数人の代表を選んで彼を探索する旅に出た。
 やがて彼らは亀山にやってきて仔細を知った。そして太岡寺縄手のくだんの場所で遺体を掘り出して見ると、疑いもなく作兵衛であった。村の人は
  『この人には連れが一人いました』
  『亀山の宿を出る姿を皆が見ています』
という。
  『さては京都にいる夫の助之進の仕業か…』
とも噂された。というのも助之進は日ごろの不行跡が原因で改易になっていたからである。しかしのちになって助之進はこの悲劇で前途を悲観し、息子を殺して自害してしまったという。作兵衛殺しの犯人は迷宮入りとなり見つかっていない。
 まったく哀れな話である。鈴鹿川と右側に続く縄手街道、遠望は鈴鹿の山々

 悲劇のあった太岡寺縄手の松並木,第二次世界大戦末期にこの松の根っこから航空機用の燃料を採取するため、惜しくも伐採されてしまったが、その後植えられた桜が見事な並木をつくっている。


 参考文献:  朝日文左衛門「鸚鵡篭中記」 
         
 
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