東海道の昔の話(171
     三つの亀山                   愛知厚顔  2009/12/8 投稿
 

 鶴は千年、亀は万年。むかしから長寿を表すお目出度い生き物です。
実際ガラパゴス諸島のロンサムジョージのように、九十年以上も生きているのもいます。長い年月の平和を寿ぐ意味から、朝廷でも亀は敬われました。天皇でも亀山天皇、後亀山天皇がおられます。また年号も正親町天皇の元亀は戦国時代。奈良時代の宝亀は元正天皇即位のとき。文亀は後柏原天皇即位のとき出典は「爾雅」、これは背中の甲羅に文彩がある亀をいいます。神亀は聖武天皇即位のときの年号です。
 また後日本紀の記録では、奈良時代の六百九十七年から七百七十五年の間、白い亀が十四回も朝廷に献上され、非常な吉瑞だと改元された例もあります。
 この目出度い亀の字を持つ、丹波亀山、伊勢亀山、山城亀山を三亀山と呼ばれました。この三つを少し考察してみます。

【丹波亀山】
 丹波亀山はいまの亀岡市です。むかしから伊勢亀山とよく混同されました。有名な話では徳川幕府の某将軍が日光東照宮へ参詣したとき、道中警護を仰せつかったのが丹波亀山藩、黒装束で身を固めた警護ぶり、それがあまりにも見事だったので、駕籠の中の将軍が
 『あれはどこの藩か?』
とお供に尋ねたところ
 『亀山藩です』
そのご褒美が間違って伊勢亀山藩に届けられ、気が付いた役番が慌てて丹波亀山藩に届け直したそうです。そんなこともあり明治二年に亀岡と改名されました。
 
 亀岡は周囲を山々に囲まれた盆地です。古代にはここに大きな湖があり、風が吹くと湖面に美しい丹色(朱色)の波が立ったと云い、それ故に丹のなみ=丹波と呼ばれるようになったと云うのですが…。神話では大国主命がこの湖の水を干拓するため、亀岡と京都嵐山の間を掘削し、保津川、保津峡として水を流した。この保津という名は妻の三保津姫命からというのです。
 また盆地内を流れる桂川は大堰川と呼ぶのは、朝鮮半島から渡来した秦氏が農業用の堰を築いたのが元と云われ、秦氏はこの地を開墾し京都の農産物の供給基地としました。

 戦国時代、織田信長の命をうけ、丹波攻略にあたった明智光秀は、その拠点に亀岡の地を選びます。そのとき丸い山を指して
 『あそこに城を築くとしよう。山の名は何というか?』
と尋ねます。土地の男は
 『あの山は亀山と申します』
 『これは幸先がよい瑞兆だ』
と大変に喜び、ここに城と城下町を築きました。
 城は「亀宝城」と名前がつけられましたが、天守の背後に連なる山の亀山にちなみ、城下町の人々は自然に「亀山城」と呼ぶようになりました。いまも亀岡の人はこの山を亀山、城を亀山城と呼んで親しんでいます。

 明智光秀は丹波亀山城を根拠地として、丹波国に割拠する豪族たちを従えていきます。しかし本能寺の変のあと山崎の合戦で滅びます。慶長十五年(1610)に藤堂高虎が大普請を行い、近世の城郭が完成しました。
 丹波亀山の地、ここは足利尊氏が一万の兵を集めて挙兵し、京都の六波羅探題を攻めた出発点。また源頼政の領地の矢田庄もあり、ほかに菅原道真ゆかりの矢田天満宮、那須与一堂、陰陽師の安倍晴明、小早川秀秋、角倉了意、宗教家の出口王仁三郎、画家の丸山応挙なども縁があります。
 亀岡盆地は晩秋から早春にかけ、深い霧が発生し一面に覆われることがあります。その美しさは言葉に尽くすことが出来ないほどです。

 丹波亀山城跡

【山城亀山】
 これはいまも京都嵯峨野の亀山公園に名を残していますが、古くは小倉山を含む一帯を指して呼んだものです。この山容があたかも亀が這っているように見え、西北部を亀の頭、東南部を亀の尾と見ており、この亀の尾のあたりを亀山とか亀尾山と呼び、だんだんと略されて亀山と云うようになりました。
 むかし寛和二年(986)兼明親王が雄倉殿の山荘を建立したとき、水が出ないのに大変困って亀山の神に祈ったところ、たちまち霊泉がわき出したそうです。また後嵯峨上皇が仙洞亀山殿したことにより、亀山の名は広く世間に知れわたりました。のちに天竜寺を霊亀山と号し、公園を亀山公園と云うのも、どれも亀山にちなんで名付けられたものです。この亀山と小倉山はいずれも亀にあやかり、古くから和歌などの歌枕として詠じられています。
 なお吉瑞の白い亀、これは現在も京都府に棲息しています。これは南方のインドネシア、ベトナム、台湾あたりに棲息しているミナミイシガメ(シロイシガメ)です。
 これが平安神宮の池で発見され、京都府の天然記念物に指定されました。それもこのあたりがこの亀の北限となるからです。 

小倉山

【伊勢亀山】
 伊勢の亀山の名前の由来として、敏達天皇(在位572〜582)のとき、朝鮮半島南西部にあった百済王朝の僧、日羅が来朝し、石亀の三匹を朝廷に献上しました。その亀を山城国(京都右京区嵐山)と丹波国(亀岡市)、伊勢国(亀山市)の三カ所に放し、それぞれを亀山と呼んだことからだそうです。これは天保五年に著した「勢陽五鈴遺響」という地誌に出おり、この石亀の住む地には一根メドキ草が生えたとあります。

 百済の僧、日羅は肥後国葦北(熊本県葦北)の国造、阿利期登の子として生まれた。れっきとした日本人でありながら、百済国の王室に仕える重臣だったようです。彼は敏達天皇の招聘で来日し、数ヶ月滞在のち帰国したのですが、日本の影響を恐れた百済の王は彼を暗殺してしまいました。
 もっとも学者の調べでは、当時の朝鮮半島に棲息していた亀はただ一種。淡水系のクサガメでした。この亀はそのころの我が国にも多数棲息しており、別に珍しくもないもの。いまも古い土壌や遺跡から出土する亀はこの亀です。日羅がわざわざ朝鮮半島から献上する意義があったか…疑わしいと学者は云います。

伊勢亀山城二の丸

(終り)

参考文献、   勢陽五鈴遺響、本朝文粋、小倉山縁起、亀岡市市史 

 
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