東海道の昔の話(172
     刀工、河内守国助                愛知厚顔  2009/12/9 投稿
 

 
 私の本名は小林甚兵衛。伊勢亀山生まれの亀山育ちです。
 親が刀鍛冶をしていた関係で、幼くして私も同じ刀工の道に入りました。当時の亀山城主は関長門守一政さまです。やが私は父の跡を継ぎ藩のお抱え刀工となります。ところが慶長十五年(1610)に関一政さまは伯耆国黒阪城に移封になり、新しい城主は松平下総守忠明さまになりました。関さまの家臣の多くは伯耆国へ移住しましたが、私は悩んだ末に一人で生きることにしました。

 私は京都に出ました。そして伝手を得て堀川国広の門を叩きました。私自身はもともと備前鍛冶の系統、この流れを汲む近江石堂系の刀鍛冶です。師匠の堀川国広は慶長四年から京都堀川で刀を打っており、門下には国路、国安、国弘など。のちに有名になる刀工たちが、綺羅星のように技を磨いていました。私とほぼ同じころの入門は国貞です。彼とはよく気が合い仲よしでした。堀川国広師匠が没すると、その甥にあたる越後守国寿について技を学びました。
 
 日本刀は武器として使用するとき、折れないためには軟らでなくてはならないし、また軟らかいばかりでは曲がってしまう。折れず曲がらず、よく切れる。これらの
相反する矛盾をいかに解決するか…、そのうえ美しさも求められます。刀工たちは苦心してこれに応えていくのです。国広、国寿での修業は毎日が苦労努力の連続でした。

 刀の製作工程にはおおよそ七工程あります。
まず砂鉄や鉄鉱石を溶かして玉鋼にする。一般にはこの玉鋼から始まります。つぎは「水へし小割り」です。これは玉鋼を熱し暑さ五ミリほどに打ち延ばす。つぎにこれを二から二センチ五ミリ四方に小割し、その中から良質のものを三キログラムほど選び材料とする。つぎは「積み沸かし」、小割りされた素材をテコに積み上げ、炉(ホド)で熱する。ここで素材は充分に熱せられ一つの塊になる。つぎの工程は「鍛錬と皮鉄(カワガネ)造り」。炭素の含有量を調整し不純物除去のために鍛錬をする。充分に熱せられた素材を平たく打ち延ばす。さらに折り返して二枚に重ねる。これを十五回ほど行う。 この鍛錬で軟らかい心鉄をくるむ硬い鉄の皮鉄が出来上がる。十五回ほどの折り返しで、約三万三千枚の層となる。日本刀が強い理由の一つです。

 つぎは「心鉄(シンガネ)造り、組み合わせ」。皮鉄造りに前後して心鉄を造る。刀が折れず曲がらず良く切れるの三条件、切れると曲がらずには、鋼は硬くなければならぬ。反対に折れないためには、鋼は軟らかでなくてはならぬ。この矛盾を解決したのが、炭素量を少なくして軟らかい心鉄、これを炭素量が高くて硬い皮鉄でくるむという方法だった。これは日本刀製作の大きな特徴である。くるむ方法には甲伏、本三枚、四方詰などいろいろあるけど、これは時代、流派、個人の好みで異なります。
 つぎは「素延べ、火造り」。皮鉄と心鉄の組み合わせが終わると、これを熱して平たい棒状に打ち延ばす。これが素延べです。これが終わると小槌で叩きながら、刃の造り込みの作法にしたがい、形状を整えさらにヤスリで磨いていく。これが火造りです。

 つぎは「土置き(土取り)、焼き入れ」。耐火性の粘土に木炭の細粉、砥石の細粉を混ぜて焼刃土とする。これを刃文の種類によって土塗りをしていく。焼きの入る部分は薄く他は厚く塗る。これを約八百度くらいに熱し、頃合いをみて急冷する。
 そのつぎ「仕上げ、銘切り」。焼き入れが終わると、曲がり反りなどを点検して直し荒砥ぎをする。最後に刀身に傷や割れがないか確認し、中心(ナカゴ)の鑢仕立てをおこない、目釘孔を入れ最後に作者の銘を入れる。日本刀は武器として使用するとき、折れないためには軟らかでなくてはならない。また軟らかいばかりでは曲がりが出る。また美しい刀剣が求められる以上、容姿の端麗さも必要である。このような多くの矛盾した要素に応え、刀工たちは苦心研鑽して刀を造りあげてきました。戦国時代と違って、いまは伝統工芸品として後世に伝えたいものです。

 寛永二年(1625)私は河内守国助を名乗りました。また国貞も少し前に和泉守国貞を名乗っています。すでに師匠の国広は没しており、私たち二人は相談し京を出て大阪に移りました。寛永七年(1630)でした。友人の国貞は摂津の出、彼の作風は広くさまざまな乱れ刃を焼き、また鍛えもよく見事でした。私と云えば作刀はあまり多くないけど、焼き刃の中にまま丁字乱れ刃が交じる。これは私が伊勢亀山時代に、備前鍛冶の系統を引く近江石堂の技法がクセとして出たものです。銘の刻みも河内守を小さく、藤原国助を大きめにしました。とくに脇差は力があり、地鉄は小板目肌がよく詰まり、細かい地沸きがついた大阪地鉄です。刃紋は焼き幅が広く、小沸きがよくついた互の目刃紋に、足、業が働き賑やかに仕上げました。二人はのちに大阪新刀の祖と称されるようになりました。

 二人とも後継者に恵まれました。私の方は三代目国助まで続き、国貞は二代が井上真改です。真改は熊沢蕃山のアドバイスで和泉守から改名したのです。真改も大阪刀工を代表する名工。作品に重要文化財を含む名品が多いです。
 そういえば、「鬼平犯科帳」のTVドラマでは「凶賊」と「寒月六間堀」の中で、長谷川平蔵が二尺三寸五分の初代河内守国助が出てました。また「剣客商売」の中の「辻斬り」で秋山小兵衛の恩師、辻平右衛門が江戸を去るとき、形見として与えた一振り。二尺三寸一分ものが河内守国助の銘でした。
 私のつたない話を聞いてくださり、まことに有り難うございました。

    (終り)

大阪府特別保存刀剣、脇指:河内守国助作
◎亀山市の文化財
  銘「河内守藤原国助」一振り    個人所蔵
 
参考文献  「日本刀の作業工程」「大阪新刀の刀工たち」「三重県文化財」
      「鈴鹿郡野史」  

 
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