【厚顔】
本日お越し頂いたのは、貴方が書かれた「亀山訓」を読んでとても感動したと、遠方の方からメールを頂戴したためです。それぞれ大名家には家訓がありますが、貴方の注釈はとても平易で判りやすく、平成のいまの時世にも通じる含蓄のある内容ですね。この家訓を含めて本日はいろいろ昔のことをお尋ねしたいです。この亀山訓は貴方が鳥羽から亀山城主になられた翌年、正徳元年(1711)に示されましたね。
【乗邑】
今日は覚悟して参りました。何なりと聞いてください。この家訓は三河西尾の我が大給松平家にあったもの、これに鳥羽藩時代の廿年間に少し追加しました。皆に頼まれて私なりの注釈をしましたが、ところどころに子供時代の三河弁があり、我れながら恥かしいです。亀山に在住年間にはいろいろな事がありました。この亀山訓や朝鮮通信使の接待なども思い出です。
【厚顔】
幼いころのことですが、五歳で肥前唐津藩城主を拝命、あとすぐに鳥羽城主になられた。そして十六才の貴方は江戸城であの大事件に遭遇された。そう赤穂の浅野内匠頭長姖が吉良上野介義央に斬りつけたときです。びっくりして席を立つ譜代大名たちの中、ただ一人で貴方は座ったまま動かず
『こうして我々がここに詰めているのは、非常事態
に備えてではござらぬか。このようなときこそ、
すみやかに行動できるよう座について、指示を
待つべきでしょう』
と皆をたしなめられた。普通の人はなかなかできません。
【乗邑】
あのとき実は私も驚いて席を立つところでした。だがすぐ浅野公は梶川某に羽交い締めで押さえられ、騒ぎはすぐ収まると思ったからです。事実そのとおりになり、諸侯には指示があるまで待機するよう云われました。
【厚顔】
あとで人々の間で貴方の人となりが評判になりました。それと、後年のあの江戸の大火のとき貴方は大活躍された。あれはいつでしたか?
【乗邑】
亨保三年、五月一日の大火のことですか。私は御浜御殿(浜離宮)が類焼しそうだと判断し、私も自から家臣たちを引き連れ走りました。そして懸命に防火に務めた甲斐があり、被害は最小限で済みました。あとでその噂を将軍吉宗公が聞いたらしく、拝謁のうえ大変お褒めをたまわりました。
【厚顔】
貴方は宝永七年(1710)六月、亀山城主になられた。当時の藩財政の禄高はどれくらいでしたか?
【乗邑】
六万石と云われていました。本藩に五万石と飯南郡に四千石、六千石は近江国蒲生郡です。だが実質は近江を別にして、本田は三万石少々と新田開発で千三百石の合計三万千八百石でした。この宝永七年は不作で米の価格が暴騰し、財政事情が非常に苦しかったのには弱りました。
【厚顔】
貴方はまた東海道の街道に出没する雲助、いわゆる「ゴマノハエ」を一掃された。これで旅人は安心して旅ができた。大きな功績ですね。
【乗邑】
これは幕命で街道沿いの各藩も同時に排除をしたものですが、亀山藩は重要な関の宿場と鈴鹿峠があるので、不逞の輩の横行は絶対に許さず徹底的に排除しました。
【厚顔】
亨保二年、貴方は亀山城主から近江淀城へ移封された。いまも地元では名君として領民に慕われたことが伝えられています。
【乗邑】
鳥羽では廿年もいたのに亀山は僅か七年。幕命には逆らえません。この地に思いを残して去りました。
今もなお昔の秋を偲ぶこそ 鴫立つ沢の夕暮れの空
私の詠んだ和歌です。
【厚顔】
このあと貴方は淀城から下総国佐倉城主、さらに大阪城代を得て三十八才で老中になられる。重要な役務は大阪城代だけの経歴の貴方が老中に抜擢。諸藩は非常に驚いたそうです。
【乗邑】
後から判ったことですが、将軍吉宗侯は政治改革を断行するため、片腕になる人間を探しておられた。それが大岡越前守であり私だったと聞きます。吉宗侯に請われて亨保十五年(1730)には主席老中、功績により延享二年(1745)六月はに一万石加増で七万石を賜りました。
【厚顔】
その改革は「亨保の改革」と呼ばれます。吉宗侯の大胆な発想と行動力による改革は、歴代の将軍の中でも名君中の名君としていまも人々に尊敬され、映画やテレビでもいくつも登場して喝采を浴びています。その改革も実績が上がってくると、人々に歓迎されました。だが年貢の引き上げで農民の恨みを買ったり凶作も重なる。改革の「負」の部分、これを誰かが犠牲になって責任をとらなければならぬ。結局、貴方がその損な役割を引き受けた恰好になりましたね。
【乗邑】
たしかに亨保の改革を強引とも云える手段で牽引したのは主席老中だった私です。そのマイナス部分の責任は指摘されるとおりでしょう。しかし後年の歴史学者が云うように、老中をクビになった直接の原因は、吉宗侯の次の九代将軍を誰にするか…、この跡継ぎのゴタゴタに深く関わり過ぎたことですよ。
【厚顔】
吉宗侯の次期将軍候補には長男の徳川家重公と次男の宗武公ですが、この長男が普通の人なら何も問題はなかった。だがこの人は生来虚弱のうえ、脳性マヒとも推測される障害によって言葉がはっきりしない。ために子供の頃から大奥に籠もり勝ち、酒食にふけってますます不健康となる。家重公のシャベる言葉を理解できたのは側近の大岡忠光だけ。吉宗侯や幕府の重役たちはほとほと困っていましたね。それに比べて次男の宗武公は幼少から聡明であり、荷田在満や加茂真淵ら学者に国学、歌学、万葉を学び、すぐそれらを理解できた。誰もが将軍の器だと認めていました。
【乗邑】
家重公には困りました。言葉がはっきりしないうえ能楽におぼれ文武を怠る。後年に家重公は名君だったという作家もいますが、それは彼を補佐した田沼意次や大岡忠光の功績です。彼はやはり病人ですよ。彼に会ったオランダ人テイチングも「日本風図誌」の中で
『彼の話す言葉は他人には判らず、ただ合図する
ようなものでしか、自分の云うことを伝える
ことが出来なかった』
と書いています。この国を治める最高責任者にこんな人を…。誰もか危惧するのは当然でしょう。私も傍観はできず積極的に工作したのです。
【厚顔】
江戸市民にも家重公のことを「アンポンタン」とか「しょんべん公方」とか蔑みの噂は流れてました。長年の健康障害で排尿機能も損なわれいたのでしょう。
【乗邑】
私は次男の宗武公を次期将軍にするべきだ。そう決心するとまず前将軍の生母、月光院とその同志を味方にしました。また三男の宗伊公からも同意の内諾を貰いました。また京都の宮家筋にも働きかけました。こうして江戸城の中にも次男宗武公を次期将軍に待望する勢力が大きくなってきたのです。肝心の吉宗侯もはじめはその気になられ、私たちとも気軽にときどき話題にされることもありました。だが彼が一番迷っていたのは、三代将軍家光候いらい続く徳川家代々の長幼の序です。長男がいるのにそれを差し置いて次男を立てる。それを初めて破る決心がつきません。
【厚顔】
NHKテレビドラマでは阿部寛が貴方の役、貴方のご苦労もよく演じていました。吉宗侯が迷った理由に、家重公は脳性マヒで運動神経に障害はあるが、知能に欠陥はない。これはいまの医学でも証明されています。家重公の趣味の将棋も素人の域を超えており、将棋に関する書物も出している。たしかに言葉は不自由だけど知性はある。それに家重公の息子の家治の出来が良い。万一に家重公がダメな将軍だったとしても、そのつぎの十代将軍は家治だから期待はもてる。吉宗侯の最終的な判断は徳川家の長幼の序を守ること、家重公を次期将軍にすると決定されました。貴方にとっては最悪な結果でしたね。
【乗邑】
延享二年(1745)九代将軍徳川家重が就任、徳川吉宗候は相談役に。だが実権はしばらく吉宗侯が握ったままでした。この年の十月九日、私は突然老中を罷免されました。恨みの報復人事は明らかです。そして間髪を入れず翌日は一万石の減俸と隠居命令した。
【厚顔】
天国から地獄へ。運命とは恐ろしいものですね。また即刻江戸から立ち去れとの命令。貴方は老中を罷免されたとき別邸さえ持ってない。賄賂など一切受けず生活は質素でしたね。仙台伊達二十一代藩主の伊達吉村公も
『左近殿(乗邑)、一切進物を受けぬ人にて候』
と書いております。お金をため込むことなど、亀山訓を説いた貴方には出来なかったでしょう。貴方は行くところがないので親類の家を訪ね、軒先を借りて梅雨をしのいだとお聞きします。これをみて江戸市民は
『いつまでも老中でいられると
思って家を建てなかったんだろう』
ひどいことを云う。つい先日まで貴方がたの改革を応援していた人です。施政者には逆らえないということですか。そして貴方は奥州山形へ去っていかれました。
【乗邑】
報復人事は私のほか次男の宗武公にも。彼は家重将軍から三年間の江戸城登城停止になりました。あとで月光院さまの仲立ちで和解し、登城は許され表むきは和解となりましたが、その後も終生にわたって二度と家重候との対面はありません。弟の宗伊公も家重候から不興を被りました。吉宗侯は宗武公をこのまま埋もれさせるのを惜しみ、自分に抵抗した尾張藩の徳川宗春公をクビにし、宗武公を据えようと画策したようですが、肝心の尾張藩の内部から猛烈な反発が起き、さすがの吉宗侯も思いとどまりました。結局、宗武公は田安家を起こして田安宗武を名乗られました。
【厚顔】
難産の末に誕生した九代将軍家重。この人に治世を貴方はどう評価されますか?
【乗邑】
「老兵は語らず、ただ立ち去るのみ」。ある将軍の言葉ですが、ここでは語りましょう。家重候の時代は吉宗侯や私たちが推進した、亨保の改革の残り遺産があり、五代綱吉候の創設した勘定吟味役を充実させたり、いまの会計検査院に似た制度を導入したり。いくつかの実績を残しています。だがマイナス面では改革による増税で一揆が各地で頻発、宝暦五年(1755)は大飢饉が追い打ちします。そのうえ彼の健康がますますひどくなりました。けれども吉宗は田沼意次を重用せよと言い残し、そのとおりにしました。家重候は政事に積極的な発言を控え、大事なことはすべて彼ら側近に任せた。だから
『十六年の治世の間は波風が立たず、万民無為が
安心して暮らせたのも、よい政治のおかげだ』
と云います。後年の作家Iさんも
『人事能力に優れ、隠れた名君だ』
と云っています。歴史が証明しているとおりだと思いますね。
【厚顔】
その後、貴方は山形で隠居された。ご長男が早世されたので家督は次男の乗祐公が継がれた。この方は寺社奉行から大阪城代に出世。あと父祖の地、三河西尾へ転封された。驚くのはこれらの移住の先々まで、亀山訓がしっかり引き継がれたことです。貴方が老中の公職を退かれたのちも家中の崇敬は厚く、世代を越えて長く慕われた。それは貴方の残した大量の治世の記録にも表れています。貴方の亀山時代は宝永七年(1710)から亨保二年(1717)の僅かの年月、これが「亀山訓」「亀山拾冊」として忠実に守られ、伝えられている。驚きを通り越して奇跡に近いですね。
【乗邑】
彼らの功績よりも、それを支えて下さった領民の皆様方あってのことです。私は山形に行った翌年にお迎えがきました。六十一才でした。法名は月心英忠源寿院です。私の安住の場所は息子の移封先の三河松明院、本給松平家の菩提寺です。
【厚顔】
本日は長時間のインタビューにお答えをたまわり、まことに有り難うございました。
【乗邑】
どういたしまして、またいつでもお呼びください。では失礼します。
(終り)
参考文献「一条兼香日記」「日本風図誌」「徳川実記」、萩原祐雄「松平乗邑失脚事件」
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