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伊勢亀山に鮫屋という豪商がいた。鮫屋は元禄のころ近江から移ってきて、亀山城青木門南の西町に店を構えたのが初代。以来代々に主は西村源兵衛を名乗って隆盛を極めた。ときには亀山藩に巨額の献納や貸付をして藩御用達商人となり、その地歩を確実に築きあげ、次第に亀山藩の財政にも深く関与していった。
ところが明和五年(1768)に農民一揆が起こった。一揆の襲撃の対象は村々の庄屋などと共に、鮫屋の西村源兵衛の店も打ち壊しを受けた。「北勢騒動実記」では
『見る人あなあはれ百金の仏壇も今宵の嵐も
木っ端微塵となり、春の朝、花に戯れし絞羅、
錦繍も土足に踏み躙り、その形なく…』
一揆の直接の原因は、鮫屋が藩財政の窮乏を救うため、水荒田畑に竿を入れること(測量検地)を建言したこと。その上、米の買い占めを画策したと思われたらしいが、はっきりした確証はないままに、主犯が鮫屋で庄屋が従犯とされて襲撃されてしまった。だが鮫屋源兵衛はしたたかだった。この農民一揆の騒ぎの最中にひそかに家財三千両を持ち出し、間道を津に出て
『他藩の米屋も襲撃されるぞ』
と流言を放ち米の価格を下落させた。これが的中して米が下落すると、米を現金で買い占め高価に売却して巨額の利益を得た。一揆が鎮定すると六千両余も持って亀山に凱旋したという。
『鮫屋源兵衛は亀山藩五万石も飲む男』
と言われ、安永三年(1774)には大庄屋に任命されている。安永八年(1779)に三代目源兵衛が襲名すると、飯沼慾斎の父、西村信左衛門が大垣から一家でやってきて、鮫屋に寄寓することになった。
西村信左衛門は大垣で伝三郎と名乗って町年寄を努めていたが、明和三年(1766)正月に起こった大垣農民一揆。このような騒然とした不況の波が町家にも及んだため、一家を畳んで亀山へ移ったのだろう。それは夜逃げ同然でもあった。
天明三年(1783)六月十日、この西村信左衛門の二男として飯沼慾斎が生まれた。
幼名は二之助本平、のち専吾、名は守之。彼には一之助という大垣生まれで四歳上の兄がいた。また後に妹も三人生まれている。伯父の鮫屋は繁盛する豪商であっても、居候同然の一家にとって生活は厳しかったようだ。慾斎の友人、江馬活堂も自分の著書で
「初め貧にして、幼なるとツケギ(付け木)を売る」
と述べている。
慾斎が七歳のころ、乳母に背負われて田圃を散策しているとき
『凡そ大丈夫たる者は、片田舎の僻地で一生を
送るべきでない。都へ出て広く学び志を立て
名をあげたいものだ』
と背中で語ったという。この話からも慾斎が子供の頃から普通の子と違っていたらしい。
こうして慾斎が十二才になった寛政六年(1794)家出を実行する。この事情を慾斎翁略伝は
『父に幾度も許しを乞うたが、父からはなかなか許しが得られ
ない。十二才のときついに意を決して単身家を出た。
頼った先は母方の叔父の美濃大垣竹島街、飯沼貞九郎
(長意と号)である。そして自分の志を告げて
身を預けた』
亀山から大垣まで、少年にとっては大変な道程であり、かなり勇気のいる行動でもあった。慾斎は大垣に着くと飯沼家に向かった。そこは母の実家でもあり、大垣竹島町で宝来屋として手広く商売をやっていた。主人の飯沼貞九郎長意は商売に精を出すほか、趣味として狂言や書をよくした文化人であった。またすぐ下の伯父の飯沼長顕は家業の膏薬製造にあきたらず、医者の道を志し二十三才のとき京都に遊学。福井楓亭に外科を学び、賀川満郷ほかの医家から産科と本草学を学んた。長顕の京都遊学は五年に渡ったが、その間に本草学の最高の権威者である小野蘭山に入門している。そして大垣に帰ってからは医業として成功し、人々から厚い信頼を得ていて、家塾でも多くの門人に慕われていた。飯沼慾斎もこの塾に入る。慾斎はこの塾を桐亭塾と呼んで熱心に学んだ。
慾斎は十八才になったとき京都を目指した。それは師の飯沼長顕の影響が大きかったこともある。京都ではまず福井丹波守に入門した。福井家は代々医業の名家であり、診察を受ける患者は皇族、公家、大名や庶民など全国におよんだ。慾斎はここで医学と漢方薬学を学んだ。京都での勉学は二年余におよんだ。そして大垣に帰ってくると医業を開業した。彼は若くして名医の評判を得たが、それに甘んじることなく、医業の傍ら本草学や化学の研究を怠らなかった。
享和二年(1802)五月、慾斎に情報がもたらされた。
『小野蘭山先生が大垣にくるらしい』
蘭山は当代きっての大植物学者、幕府の医学館教授として活躍中だった。この年の二月、幕府の命令により小野蘭山は浪華、紀伊方面の植物調査を命ぜられてた。彼は東海道を上り三月に浪華、紀伊各地を巡った。五月は大和から京都に出て中山道を通る。そして五月十三日に美濃赤坂宿に宿泊するというのだ。廿才の慾斎は飛び上がらんばかりに喜んだ。
『ぜひ蘭山先生の教えを受けたいのです。
入門のお許しください』
必死の思いが通じたのか、総勢百余名の大集団を従え、忙しい時間を割いて美濃赤坂宿で逢うことができた。彼は師の飯沼長顕に同行してもらい、彼の紹介で蘭山に入門を願い出た。
「私もまだ未熟者ですが、一緒に学問研究をしましょう」
こうして正式に蘭山の弟子となった。蘭山一行は翌日は金生山に登り、方解石や大理石あるいはウミユリなどの鉱物化石を約四十種採集した。慾斎は蘭山先生と終始同行して採集したが、十五日には岐阜加納に向かう蘭山一行と別れている。蘭山たちは江戸に二十九日に帰着した。
飯沼慾斎が再び小野蘭山に逢ったのは二年後、文化甲子元年(1804)九月廿八日である。大垣宿の飯沼長顕宅は大変な賑わいとなった。懐かしい小野蘭山とその一行が、宿泊することになったからだ。蘭山はこの年の七月廿一日に幕府から呼び出され
『伊勢、志摩方面の植物調査を命ず』
と沙汰があった。彼はいつものように植物調査採集に必要な道具類、同行する学者仲間や役人など準備を整え、総勢百余名で八月十三日に江戸を出立した。そして東海道を箱根、安倍川、大井川、浜松、岡崎、熱田の宮と上り、十月十二日に桑名に入った。伊勢では鈴鹿神戸、津を経由し目的地の一つである経ケ峰に登って多くの山野草を採集した。その後、伊勢神宮神域での特別調査や朝熊山などでも調査を行った。
蘭山一行はその帰途、桑名から揖斐川を舟で遡り、大垣に着いたのだった。若いときから山野を跋渉して採薬し、体力脚力は絶対に人に負けないと自負していたが、彼ももう七十六才の年齢には勝てない、大垣宿の飯沼長顕宅へ着いたときは相当な疲れようであった。しかしわざわざ大垣まで足を延ばした理由は、ひとえに愛弟子の飯沼長顕、そして飯沼慾斎に逢うためであった。
その夜、三人は旧交を温めた。と云っても彼ら学者の場合は酒肴の宴会は続けない。すぐに学究の成果や研究報告の場になる。蘭山は伊勢で採集した草の見本を見せ
『これは津の旅宿の庭で採集したものです。宿の老婆の話は
美濃原産でカラスノシリヌグヒ、また尾張ではヌメリグサ
呼ぶと云ってましたが、伊勢ではよく見かける草です。
これはすでに知られている草なのか、或いは新種なのか
調べるつもりです』
嵐山は言葉を継いで
『津の宿では伊勢の本草学者が沢山会いに来られました。
平松健之助、増田泰民、片岡順益、桜井柳蹟、須山道益
川崎隆策、菊池仙庵、そして山篤慶仲の諸君と懇談しまし
たが、皆さん大変に知識を究めた方々でした。お二人は
伊勢の方に親戚や知己が多いと聞いてましたが、これらの
方々はご存じでしょうか。なかでも山篤慶仲さんは植物の
一覧表を頂戴し、大変参考になりました』
飯沼長顕は慾斎を指し
『この慾斎は伊勢亀山の生まれですし、いまも実父は亀山に
住んでいます。私たちは尾張の水谷豊文らとの繋がりに比べ、
伊勢の方々とは殆ど交流がありません。こちらで知られて
いる方々では津の岡安定、川喜多政明、西村広林。
宇治山田の春木煥光、この方は蘭山先生もご存じですね。
松阪では殿村常久、丹羽節斎あたりでしょうか。』
嵐山
『春木は伊勢外宮の神官の家柄で本草学は私の教え子です。
彼は自宅の庭に珍草奇木を栽培して研究していました。
丹羽節斎君も私が京都時代の塾で教えた人です。
こんどの伊勢採薬でお会いした山篤慶仲という人
から、経ケ峰と布引山でよく出かけて採薬するらしく、
その情報が今度の経ケ峰調査に大変役に立ちましたね。
それによると経ケ峰、布引山山麓の桂畑、北谷、長野あた
りで採集できていたのは、
菊カラクサ、三河キク、キセワタ、キジオシ、玄参、ゴマノバグサ、
オカラハナ、ダイサギソウ、牛扁、伶人ソウ、ウメバチソウ、ツルガシハ、
石楠花、王孫、ツクバネソウ、巻柏、イワヒバ、人参カノニゲグサ、
芸州巻柏ヒメヒバ、漏廬、クロクサ、仏甲草、その他多数に
上っていました。』
長顕
『当時と違い、いまは植生も相当に変化していますから、
この美濃や伊吹あたりでも、かなり植生が変わってきてます。
山篤氏が採集した草木類がまだ残っているかどうか…。』
蘭山
『そうです。私たちは津から山麓の穴倉村まで駕籠で行き、
そこから経ケ峰に三〜四十丁ほど登りました。この山は
陽当たりが好いせいか、珍しい花や草が少なかったです。
私たちが採集したのは
ハナワラビ、ヤマニンジン、シオガマキク、小シオガマ、ヤマジノキク、
リンドウ、オミナエシ、サワヒヨドリ、コガンピ、ゼガイソウ、ウドモドキ、
サササキクサ、シオデ、ナギナタカウシュ、ムロ、フクジュソウなど、他にも沢山
あったのです。また楠の木は大変多かったですね。
この日は山麓の穴倉村で一泊し、翌日は半里ほど先の柳谷と
栗原、足坂などを経由して榊原まで行きました。榊原村では
吹寄石や貝石を採取しました。また貝やサザエの化石は石を
割ってとり出しましたよ。』
弟子の二人は
『榊原は枕草子で有名な七栗の湯がある村ですね。そして近く
に貝の化石が沢山出るという貝石山があると聞きました。
蘭山先生もたぶんその山で採取されたのでしょう』
『そのとおりです。榊原村では山川吉左衛門という人の家で泊
まり、その人が収集した見事な化石類を見せてもらったの
です。』
『伊勢榊原村の貝石山から出土する化石も有名ですが、先年
私ども二人も同行させて頂いた赤坂の金生山。この山も
石灰岩、大理石からウミユリや動物の骨の化石が見つかって
います。また珍しい陸貝や昆虫類も棲息しているようですが、
いずれも今後の本格的な調査研究が待たれているものです』
長顕
『伊勢神宮の神域樹林は一般人は立ち入り禁止ですが、蘭山
先生の調査ではどんな収穫がありましたか』
嵐山
『伊勢神宮の特別な配慮で支障なく調査ができました。
ここではツルヤマタチバナ、竜胆、巴栽天、山葵、茗荷、ばくちの木、
いその木、モミジソウ、ウバカネモチ、ツネ、ヤブレガサ、風蘭、胆八樹、
楊梅、核児挙頭(ガマズミ)、ほか多数採取できましたね。』
三人の話は深夜にまで尽きることなく及んだ。話の方向が少し変わったころ長顕が慾斎を指し
『実はこの男を私の養子に迎えるつもりです。そして娘と結婚し
て飯沼の家を継いでもらうつもりです』
『そうですか、それは大変お目出度い。これで美濃の医学と本草学
が盤石になります。人々のためにも大いに頑張ってください。
江戸に帰ってからも、研究の成果をお互いに教えあいましょう。
尾張や京都の先生方にも、この吉事をお知らせしましょう。』
こう言い残して、小野蘭山の一行は岐阜加納宿を目指し飯沼家を去って行った。 その後、飯沼慾斎は本格的に本草学にとり組み始める。全国各地に足を運び植物調査を行い、自宅の庭に植物を植えて研究を怠らなかった。次第に医術からも遠ざかり、本草研究だけの生活になる。その名は次第に全国の学者仲間にも知られる。
この地方の菰野山(御在所岳)では「コモノギク」を発見、これは菰野町の町花に指定されている。やがて尾張の伊藤圭介らと出合い蘭学にも目覚め、西洋の最新の植物学の知識をものにする。その集大成が慾斎が七十四才から八十才にかけてまとめた大著「草木図説」である。この草部廿巻は1856年から1862年出版されたが、本巻木部上下の十巻は1977年にようやく刊行された。これは漢方学から脱却し、リンネが用いた最新の西洋の植物分類を採用した画期的なものである。この本の見事なスケッチ、これはいまも図画辞典なに採用されている。シーボルトは彼と仲間の本草学者たちを
『彼らは世界的な植物学者である』
と賛嘆した。
師の小野蘭山は文化七年(1810)八十二才で没した。慾斎は廿八才のときである。
また実父の西村信左衛門は慾斎廿三才のとき伊勢亀山の野村で没した。墓は法因寺にいまもある。慾斎本人は慶応元年(1865)閏五月五日に病没した。八十三才だった。
墓所は大垣市安井町の縁覚寺にある。法名、徳量院道全寿覚。
参考文献: 遠藤正治,北村二郎,水野瑞夫「飯沼慾斎の生涯」
松島博「飯沼慾斎と伊勢本草学」
飯沼慾斎「草木図説」
シーボルト「江戸参府紀行」
山篤慶仲「経ケ峰、布引山採薬記」
小野蘭山「伊勢採薬記」
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