私は津三十五万石、藤堂藩の顧問を仰せつかっている津坂東陽と申す者です。
この度は亀山藩にお招きを給わり、皆さまと親しく和歌についての意見の交換ができますこと、大変嬉しく存じます。ではまず最初に私が亀山藩内の鈴鹿山と鈴鹿川、このの歌について、日頃から疑問に思っていることを、少しお話ししましょう。
「続後撰集」に藤原定家の歌に
鈴鹿川ふりさけみれば神路山
さかきばわけて出る月影
とありますが、どうも鈴鹿川と神路山の組み合わせがピンと来ません。
これは地理をまったく知らない歌です。神路山は内宮の御山の総称で、天照山とも宇治山とも云います。鈴鹿山から南へはるか離れた所にありますね。そしてその山は低くて見えません。また月もその方角からは上りません。また鈴鹿川は五十鈴川の間違いではないかとも云われますが、神路山は五十鈴川の南にあるので方角も違います。
これは恐らく、「新勅撰集」の中にある京極殿の歌に
鈴鹿川八十瀬さざ浪わけ過ぎて
神路の山の春を見しかな
とあるのを間違えたまま参考にしたのでしょう。この歌は鈴鹿川を越えて来て、神路山まで到着したという意味です。京都の都に西国から遊学した学生が、故郷に帰るに際して京都の名所旧跡を見巡り、そのついでに鎌倉も見て行こうと、それは京都からどれほどの距離があり、どの方角にあるのかと聞くのと同じです。何を馬鹿なことを聞くと人に笑われます。「ふりさけ見れば」の歌の主、藤原定家の間違いは、このおかしさに似ています。また「後撰集」には、女のところに脱いだ着物を置き忘れ、それを取りに行った歌に
鈴鹿山いせをの蜒の捨衣
しほなれたりと人や見るらん
鈴鹿山から海辺までは六、七里も離れています。これも夫木集にある民部卿の歌の
鈴鹿川たか名をたてていせのあまの
しほなれふりすててけり
とあるのを「後撰集」は真似たのでしょう。また「日集」に「よみ人知らず」の歌で
鈴鹿山伊勢の浜風さむくとも
千代まつまでに色かふなゆめ
これも同じ間違いですね。契沖阿闍利の「河社」という書物にも、また「風雅集」にも
はつ瀬山檜原に月はかたむきて
豊浦の鐘の声をふきゆく
また「勅撰集」の
霧はるる伏見の暮れの秋風に
月すみのぼるをはつせの山
これのの歌も方角を間違えています。伊勢と大和は近い国ですが、こんな間違いうをどうしてするのでしょうね。歌人は居ながらにして名所を知ると云われます。しかしそれは名前だけ知っているだけです。謡曲「田村」は坂上田村麻呂が、鈴鹿山の女山賊を懲らしめる話です。
「鈴鹿山から安濃の松原を見るに」とは、これらの詞は安濃の松原と鈴鹿山が地続きのように聞こえます。これは「夫木集」の家長朝臣の歌
すすか山ふりはえこえて見わたせば
みどりにかすむ安濃の松原
とあるのを、そのまま参考にして詠んだのでしょう。鈴鹿山を越えてその先を見渡しても、安濃の松原が見えるはずありません。歌ことばをよくよく読んで味わえば、この類の間違いは非常に多いです。ほかにも「夫木集」後来朝臣の歌に
ふりすててこさらましかは鈴鹿山
扇の風の吹こましやは
この歌は伊勢へ赴任した友人に、京都から扇を贈った人への返歌です。鈴鹿郡は安芸郡に続いていますが、扇に安芸をなぞらえて詠んでます。京都から伊勢参宮する道筋の鈴鹿山の坂道、また関の古厩までは鈴鹿の範囲です。楠原村から安濃の津の入り口までは安芸郡です。扇の郡の内にあると詠むのは間違いですね。ほかにも「新勅撰集」に、藤原定家卿が伊勢勅使の御供して下ったとき、鈴鹿の関を越え道ばたに咲いた花をみて詠んだ歌なども間違ってます。このように名歌と称賛される歌でも地理を知らず、方角や距離感覚を無視したのがあります。以上、これはあくまで私の個人的な考えです。皆さまはどう思われますか。のちほどゆっくりご意見を拝聴しましょう。
参考資料: 津坂東陽「勢陽考古録」
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