東海道の昔の話(18)
   蜀山人の旅        愛知厚顔   元会社員  2003/9/17投稿
 
 彼の名は大田南畝、号を蜀山人。人は江戸きっての文化人と云う。
彼は年号が寛政から享和に改元された年(1801)、江戸を出て京都難波への旅を思い立った。そのとき書き記した日記「改元紀行」は、近世の旅行記として素晴らしい傑作といわれる。
 彼は東海道を幾日も上り、尾張の熱田宮の渡しから海路桑名に渡り、伊勢路にはいった。その日記の一部を現代文に要約して読んでみる。

【三月七日】
 四日市を出てさらに庄野の宿を過ぎ、森下(鈴鹿市)というところの立場(休息場)で一休みした。冷泉為村卿の紀行に

  降る雨に風さへ添ひて今日笠の
          雫もしげく曇りのした道     為村

と詠まれたところはこのあたりだろう。街道を後ろ向きにして建てられた祠がある。
  『これは何ですか?』
と聞いたところ
  『八王子さまです』
とのこと。ここは中富田村(鈴鹿市)である。ここの医者の家の格子に「他行療用断」という札が下げてあるのも面白い。右の方に水車があり、このあたりから亀山、石川主殿頭の所領と見える。
 制札に令条を書いて末尾に小さな木札を打ちつけ「主殿」と書き、[依仰私領中下知如件]という言葉が令条の末尾に書き添えてある。
 ここから上方にある私領の制札はみなこのようであった。

 いずみ川の土橋をわたり小田と言うところに着いた。
常念仏堂があり左に観音堂が見える。さらに川合土橋をわたると和田の地蔵があった。さらに和田の坂をこえて亀山の城下に入った。
 これは石川主殿頭の城である。
城門に入れば右に城門があり、これが大手門だろうと思った。亀山横町を過ぎれば左の方に坂があり、この坂を上って城門を出ればつぎは急な坂を下る。城下の市中は賑わいがない。
 四角い形のものを軒先にさげ湯豆腐、油揚げ、あるいは豆腐、こんにゃくなど書いてあり、実に鄙びている。髪結い床もあった。東海道亀山宿西町ますや跡
  『亀山の立場は?』
と聞いたところ
  『能古茶屋です』
との返事。この村の人家で「水車輪板あり」と書き、表に看板を出しているのも珍しい。左の方に皇舘太神宮(現、布気神社)がある。
天照大神が五十鈴川に遷幸されたときの跡とのこと。古馬屋というのもこのあたりであろう。

 坂を越えれば落針村である。
土橋を渡って左のほうに流れる川を関川(鈴鹿川)という。また土橋をわたると松の並木が両側に立っている。この間は十八町あって大岡寺縄手という。
 小野村をすぎて関の宿場の入り口に追分(東ノ追分)がある。
  「これより南伊勢道」
と記した鳥居が建っている。右に薬師道がある。この宿場には火縄を売る者が多い。柳屋櫛と書いた札も見えた。
「ます屋」という宿屋の額に「直温寛栗」と書くべきところを「寛粟」と間違えて書いてあった。このあたりの村の学究の書であろう。未の刻に宿屋についた。

 宿は堺屋五郎兵衛という質朴な主人である。額に「成趣」の二字に長秋書とあった。屏風に「雪中春酒熟書後故人来」また「風俗猶太古心和得天真」ともに蘭渓書とあって、書もよく書け拙くはない。おりからの山の趣きにもよく合致している。
 ここを関と名があるのは古い昔に鈴鹿ノ関があったところからだ。
新後撰集定家卿の歌に、

   えぞ過ぎぬこれや鈴鹿の関ならむ
        振り捨てがたき花のかげかな      定家

と詠まれた花を「えぞ桜」と名ずけ、いまもあると聞いたので、宿の主人に案内させ、裏の戸口を出て細い道をたどって見にいった。
向い側に高い山が並んでみえる。左は大日の森、右はカゴ山という。
遠い昔に寺が沢山あった場所だという。小さな流れに橋がかかっている。これは鈴鹿川の下流にして、この川上には琴ノ橋がかかっている。夫木和歌集の

   鈴鹿山桐の古木の丸木橋
       これもや琴の音にかよふらむ       俊成

歌を思い出すうちに、神風の伊勢の神宮に詣でる心地がして、大変有り難く感じ入った。
 かたわらの鎮守の宮を笛吹大明神という。六月十五日が祭日だがどんな神がおわすのだろうか、碓氷峠は笛吹峠とも呼ばれるが、かねてから聞いているように、ひょっとすると白鳥の御陵も近いことから日本武尊がおわすのかも知れない。
 細い道は少し険しく、小さな茅屋が四、五軒ばかりある。そして木を切ったり鋸を曳く音がする。むこうの山はもっと幽玄で春の山の雰囲気充分である。

 稲荷神社の前を過ぎて関の地蔵院の後にいたる。
かたわらの岨に一本の桜が立っている。桜の幹は枯れており根から沢山の枝が生えている。この若木の樹齢も百年以上になるだろう。
花は五分咲きで薄い緋桜色をしている。案内が『えぞ桜です』と言う。樹を下から見上げると、実に
  「振り捨てがたき花のかげかな」
を実感した。できたら酒を微酔に汲みたいところだが、見るだけに終る。花をひとふさ摘み懐に入れていると、ここの主人が気の毒に思ったのか、一枝手折って優しい心ずかいをしてくれた。

 さて寺の後から入っていくと、これが有名な関の地蔵院である。
庭の池に注ぐ流れがある。この水は四、五丁の早苗をとるという。
主人は寺の書院と地蔵堂に案内してくれた。かねてこの関の地蔵菩薩は、紫野の某という人の大徳で開眼したと聞いていたが、まさしくこれであった。桂昌院殿(五代将軍綱吉の母堂)の帰依が深く、護持院僧正の願いより、このような荘厳な御堂となった。
桂昌院殿の御位牌があるこの寺は、九関山宝蔵寺地蔵院という。

 このあたり昔は馬屋路と言われ、松の木が一群立っているあたりが鈴鹿の関の跡だという。旅宿に戻って日暮れまでの間に時間があるので、しばらくは家族や友人たちの夢をみたいと、残り灯火を掲げて漢詩を作ってみた。

   関駅夢還故郷   関宿にて夢は故郷に帰る  南畝
  駅舎孤燈耿一床  駅舎孤燈ひとり床に眠つかれず
  暫時飛夢在家卿  暫時夢は飛んで家卿にあり
  分明親戚尽情話  親戚ははっきりと情話を尽す
  不道江山千里長  思いがけなく海山千里をへだった

   関駅尋花  関駅に花を尋ねる        南畝
  曲径尋花入  道をまがって花を尋ぬる
  丁丁伐木音  ちょうちょうと木を伐る音 
  橋隋流水小  橋に随えば流水すくなし
  松抱故関深  松抱 故関 深し
  猶有黄門詠  なお黄門(定家)の詠あり
  長伝芳樹吟  芳樹の吟詠を長く伝う
  低回不敢過  低く回りあえて過ぎず
  休座一株陰  座して休む一株の陰

  京極黄門(定家)の「ふりすてかたき花のかけ」のたまひし木を
  えぞ桜とて今も猶のこれり

   言の葉は蝦夷知らぬ身も鈴鹿山
         年ふる花のもとにこそよれ    南畝
    
 【三月八日】関の町並み

 晴天。昨日見た関の地蔵堂の前を通る。このあたりが関の地蔵町という。火縄屋彦四郎御火縄所と書いた札などもみえる。右のほうの茶店に志賀屋というのがあり、一本の桜がいま真っ盛りの花である。さざ波の志賀の都を思いやられた。しばらく行くと山路に入る。
鈴鹿川が道の左右に現れて流れ、数知れない瀬があるので八十瀬と呼ばれている。右のほうに夷岩というのがある。実に蛭子の形をしていて山の中腹にあった。

 つぎに大黒石というのもあるが、形はやや夷岩に劣っている。
はねかけ橋を渡って藤ノ木茶屋をすぎる。八十瀬川の流れに臨んで古法眼が筆を捨てた山と説明する札があった。道の右のほうに東屋があったので立ち入ってみる。向いに一つの山があり奇岩怪石がところどころに蹲っている。このため松の根は曲がりたわめられ、
ツツジの花も所をえて喜んでいるようだ。「五渡渓頭躑躅紅」と渡渉して歩き詩を詠じていくと、人が手を加えたように巧みに見せた山のようであり、絵に描いたならかえってあさましいと思う。
古法眼とやらが筆を捨てたのも、もっともな道理であろう。

   擲筆山  (筆捨山)   南畝
  擲筆山頭紫翠迷  筆捨山頭 紫翠に迷う
  当年画史不能題  当年画史 題するにあたわず
  茂林疑人麻源谷  茂林人は疑う麻源の谷
  躑躅如過五渡渓  足飛びをして渓を五度亙る    

 沓掛村を過ぎて坂ノ下に宿についた。
宿の人家に「根本鈴鹿櫛所、勢州坂下宿松岡久平」などと札をかけているのもある。このほかにも櫛を売る者が多い。今日は鈴鹿権現の祭らしく、家々の軒に提灯を出している。
続後選集に

  鈴鹿川ふりさけみれば神路山
        榊葉わけて出る月かげ      行意

と詠んでいのは僧正行意の歌だったか…。
 坂口にむかえば右に観音堂がある。また左のほうに権現の社、これは高い山の上に立っている。石坂を登り右に禊ぎ殿があり、また左に神楽堂があって神主巫女などの姿が見える。これは今日の祭りのためであろう。
 駕籠から下りて石坂を上り権現の社にぬかずく。祭神は三座で中央に瀬織津媛命、左右に黄吹戸命、瀬羅津媛命、相殿に倭媛命、と聞く。摂社に大山祇命、稲荷愛宕など鎮座まします。

 音に聞こえた鈴鹿山は八丁廿七曲がり、道は狭くて険しい。
清水はところどころに涌いて雨の日は苦労することだろう。
 山を越えて左に田村麿の社がある。峠の茶屋は澤という立場であり地酒を売っている。
 ここが伊勢と近江の国の境であった。

  すずか山ふりしむかしに引かへて
       鬼の住むべき隠れ家もなし    南畝

                          
 ◎参考文献   大田南畝「改元紀行」「小春紀行」     

 
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