東海道の昔の話(19)
   亀山の名医        愛知厚顔   元会社員  2003/9/19投稿
 
 嘉永年間(1848〜1853)の話
 
 伊勢国の亀山の東町に三折という医者が開業していた。
彼は豪快な気風で医術も優れており、患者を親身になって診察し、弱者、貧者からは一銭も報酬を受けとらないほど、仁徳すぐれた医者で知られていた。
 その彼が六十才を過ぎて間もなく、自身が病に倒れてしまった。
日に日に身体が弱っていく様子に、親族は他の有名な医者にかかるよう勧めたが、彼は
  『私は医者です。自分の身体のことは自分が一番
   判っています』
と、ガンとして自分の意思を曲げず。弱った不自由な身体に鞭打って患者の施療を続けていた。しかしとうとう床に伏すようになる。
 死の影が間際に迫ったある日、彼は家族や親しい友人を枕元に呼び、
  『これから私の言うことは遺言として聞いてください』
と言い残した。

 その内容とは
  『私が死んだときは盛大な葬式をしないでください。
   また寺に埋葬する必要もありません。どこかの路辺に
   私の身体を埋めて墓標を立てるだけでけっこうです。
    私は死んでも怪我や病気で悩む人を必ず助けます。
   長年医者だった私が云うことに間違いはありません。
   いつか私の墓所に清水が涌き出ますから、それを服用し
   てください。これを信じてください。
   かならず治るはずです。』
 人々は
  『じつに不思議な遺言を聞くもの…』
と噂しあったが、ほどなく三折は亡くなってしまった。家族は野辺の送りを済ませると、遺言どおり路辺の谷間に埋葬し簡単な白木の墓標を立てた。

 するとしばらくしてその脇から清水が涌き出てきたではないか。
人々はそれをみて
  『三折先生の遺言はこのことだったのか…』
と驚いた。そしてじつに奇特なことと思って墓所に祈り、半分疑いながらも病や怪我を抱えた人びとはこの清水を服用した。
すると病気や傷も日にちを経ていくうちに治っていくではないか。
他の医者に見離された重い病人も平癒してしまう。
 この噂が噂を呼び、亀山の彼の墓所には沢山の参詣する人が来訪し、そばから涌き出る清水を求める人々で溢れるようになった。
 いまは墓辺の田畑みな人家になって、往来は人々が群集し茶屋や芝居小屋などのたぐいも軒をならべ、きわめて繁盛の地だそうである。往時は賑わった本町三本松付近

 これは嘉永年間に尾張名古屋城下に伝わってきた亀山の噂話である。
これを尾張藩の学者が書きとめたものだが、主人公の医者の三折と墓所、そして清水についての詳しいことはいまも判らない。

 情報伝達の時間距離が遠かった時代の話である。


 参考文献    小寺玉晁「見聞録」       
    

 
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