東海道の昔の話(2) 鏡岩と女山賊 愛知厚顔 70代 元会社員 2003/7/7投稿 |
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鈴鹿峠(378m)をとおる街道はかなり古い時代からあった。 それが都が京都に置かれると、平安時代の初期に京と東国を結ぶ交通路として整備され、京都から近江の土山をとおり、伊勢の坂下に出る道の峠として仁和三年(887)に開通した。 朝廷の勢威が東国各地までのび、京都と交流が盛んになってくると、この道を通行する学僧、役人、商人なども多くなってきた。すると彼らをねらった山賊も跋扈するようになる。海道として整備される前後の八世紀から十二世紀にかけてが、鈴鹿の山賊が活躍した時期であった。 十世紀の「日本紀略」の記録には 『醍醐天皇の延喜六年(906)九月二十九日、鈴鹿山の 群盗十六人を命によって殺す。』 とある。十世紀中頃の「太平記」にも 『我こそ伊勢鈴鹿山にて官軍に討たれし山賊の首領伊寿丸の 孫にて候、いまは播磨に住むが、一声号令をかければ 五十人や六十人の手下はすぐ集まる』 と鈴鹿山賊の系統を自慢している。十二世紀の「保元物語」の記事でも 『我こそ鈴鹿山の盗賊の首領伊勢七郎を打ち破った男』 と山賊退治の功績を挙げている。このほかいろいろな古文書や民間伝承をみても、鈴鹿山の山賊は山賊仲間の中でもトップクラスだったらしい。 ひとつの伝説がある。 むかし昔、鈴鹿の峠に女鬼が住みついた。 この鬼は変幻自在の神通力を持ち、ときには絶世の美女に変身することができた。そしてこの嫣然とした魅力で、多くの荒らくれ男を手下に引きつけていた。彼女は峠にある鏡肌岩を鏡の代用にし、我が身を映したり諸肌になって髪を櫛けずったりする。手下の男たちはそれを垣間見て欲望をたぎらせる。 鏡肌岩の表面はツルつるの光沢を誇り、まったく実物の鏡と変わらないほどである。彼女は下の街道を通行する旅人の姿が鏡肌岩に映ると 『それッ行けッ!』 と手下とともに襲いかかる。そして 『我れこそは鈴鹿山にて名を知られたる立烏帽子なるぞ!、 ふところの限り身ぐるみ剥いで置いていけ。命ばかり は得させん。』 と雷の落ちかかるような声を出して脅した。旅人は魂も身に沿わず、ガタガタと震えてありったけの物を差し出して逃げのびた。女賊の名前は立烏帽子という名である。 このように荒稼ぎ悪行を繰り返す毎日だったが、だんだんと強盗所業がエスカレート、とうとう公家や高官役人の行列まで襲うようになる。 この立烏帽子のうわさはときの平城天皇の耳に入った。 天皇から 『この女賊を退治せよ』 と命じられたのが勇猛果敢な武人、坂上田村麿である。彼は東国の出身で父はこれも勇猛な坂上苅田麿である。天皇からこの女賊退治を命ぜられると、田村麿はまず京都の清水寺に必勝の祈願をした。そのとき観世音菩薩から霊感を給わったという。 彼はさっそく軍勢を整えて鈴鹿山へむかった。 峠の付近にさしかかると、あやしいほどに荘厳な屋形と美しい娘があらわれた。そして軍勢をまどわせたり、突如消えたと思ったら彼方の岩の上から招き寄せたり翻弄する。これを見て従う軍兵たちは 『あれこそ噂に聞いた女鬼だ。とても適う相手じゃない 逃げろ!』 と恐れおのゝき我れさきに逃げまどう有様。このとき田村麿は少しも怯まず、軍扇を一振りし 『皆のもの退くな!我れに観世音菩薩の味方あり、 女賊の立烏帽子など恐れるな!いまこそものゝふの 心意気を示せ!』 と大音声で激を飛ばした。 観世音菩薩の名を耳にした兵士たち、逃げるのをやっと踏み止める。 そして田村麿の周囲に集まって再び隊列を整えはじめた。 彼は背負った矢筒から一本の矢を抜きだし 「南無観世音菩薩、我れに勝運を与えたまえ」 と一心に念じながら弓につがえた。そして彼方の岩の上に立つ妖艶な美女を狙った。いままさに矢を放そうしたとき、それまで自在に田村麿の軍勢を愚弄していた立烏帽子が 『待ってください。菩薩の霊力に守られた田村麿さまに 勝てるはずありません。お許しください』 とひれ伏し降伏したのであった。田村麿はこの女賊に対し 『立烏帽子よ、これまでの悪行を悔い改めて生きるがよい。』 と云うと、その矢を天に向かって放ったのであった。 田村麿が女賊の立烏帽子を打ち破ったのが大同二年(802)二月十八日。 このとき放った矢が落ちたところがいまの田村神社の地であった。 この後、立烏帽子は安らかな人間に立ち戻り、田村麿と結婚して鈴鹿の御前と称せられるようになった。 坂上田村麿はその後も武人として東国の平定などに活躍し、輝かしい功績を挙げた。延暦十四年(914)には征夷大将軍となり二十四年には参議にも列っせられた。弘仁二年没。京都の清水寺の創立者、寺の建物は田村麿の私邸を移築したもの。田村神社は彼が祭神である。 いま鈴鹿峠の旧峠付近には国道に面して天然記念物の鏡肌岩がある。 専門的にも鏡肌というらしいが、大昔中世代の末期、花崗岩が古代のチャート土壌や粘板岩を貫いて、上昇したときに出来た圧砕岩の滑り面だとのこと。いまの岩肌は光沢はあるが、なんとなく汚れた褐色で肌が荒れている。女賊が鏡の代用にして黒髪を櫛けずったとはとうてい思えない。説明では長年の風雨と山火事のなせるわざという。 鈴鹿の女山賊の話は広く世間に知られており、謡曲や御伽草子、田村草子などにも登場し、葛飾北斎も北斎漫画の中に合戦模様を描いている。また勢陽五鈴遺響や三国地誌、近江国興地誌略などの地誌でも、くわしくとりあげられているが、学者は一様にこの話には疑問を投げかけている。しかし古くから海道を通行した旅人は必ず田村神社に参詣し、 多くの和歌や詩歌を残している。 鏡肌岩は昭和十一年に三重県天然記念物に指定されている。 参考文献 謡曲「田村」 上田秋成「癖ものがたり」 大川吉崇「鈴鹿山系の伝承と歴史」 |
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