東海道の昔の話(20) 野村一里塚 愛知厚顔 元会社員 2003/9/20投稿 |
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亀山城を横に見て古い野村の町並を歩くと、やがて行く手に大きな大木が見えてくる。これが国指定文化財の野村一里塚である。 道路の脇に土を盛り上げて壇をつくることは、もともと中国の故事からきている。わが国では織田信長が元亀元年(1570)、近江国安土から京の都まで三十六町ごとに一里塚を築き、道の縁に松を植えたのが最初といわれている。 徳川政権が発足して間もない慶長九年(1604)二月四日、将軍秀忠は東海道、中仙道、北陸道を一級国道として整備し、一里塚を築くよう命をくだした。 そして 『武州江戸は日本の東西の中心に当たる重要な土地』 と定められた。このとき日本橋を起点として道路の幅を五間に定め、一里ごとに道の両側には五間四方の塚が設置された。 この工事の総責任者は大久保長安(のちに失脚)、そして東海と中山の両道は永井弥右衛門白元と本多左太夫光重が担当した。 民間から補佐役として土木業者の樽屋と奈良屋が命じられた。 公領は代官そして私領はその土地の藩主が担当することになった。 東海道は日本橋から京都三条まで百廿五里二十町の間に一里(約4km)ごとに塚が築かれていった。三重県内では鈴鹿峠から桑名の七里渡しまでの間に十二ケ所となった。 宿場町亀山は天文、弘治年間に関盛信が街道を整備し、道路の幅を広げ平坦とし、城下町から宿場町へと発展させる基礎が作られていた。関ケ原合戦直後の慶長六年(1601)には宿場継ぎの乗馬駅伝の制度に従って伝馬を置いた。また問屋場として貨物、人馬 の継ぎ立ちの便宜をはかる役目もあった。それを慶長九年(1604)の工事でさらに大々的に仕上げを行った。 野村一里塚は亀山城主の関長門守一政が造営にあたった。 彼は美濃の時多良領から移封して三万石を給わった外様大名である。この一里塚はいま北側の塚しか残っていないが、もとは道路の両側にあった。 南側の塚は大正三年(1914)に取り払われたという。いま残された北側の塚には、樹齢三百年を越すと思われる椋の大木がある。 塚の盛り土は約三メートル、樹の周り六メートル、高さ三十三メートルもあるという。 椋の木の一里塚は江戸時代でも珍しく、江戸中期の天保年間の調査による〔宿村大概帳〕によれば、全国でも数本あるだけで当時でも話題の塚である。 一番多いのは榎(えのき)で過半数を超え、つぎに松が四分の一強、ついで杉が一割弱。ほかに栗、桜、桧、樫(かし)マユミなどが数本あった。 また高崎藩のように小祠を置いた例や、標柱だけのもあり、旅人は一里山、一里木、一里松、一本松、一里壇などと呼んでいた。 一番多い榎を植えた由来について〔落穂集〕という記録では 「 大久保石見守 『一里塚の上に何にても木を植えてはいかが』 と相伺はれ候へば、一段と 『然るべし』 との仰せに付き、 『何の木を植えさせ申すべき』 と重ねて相伺はれ候に 『い木(異木、珍しき木)を植えよ』 との仰せを聞き違え、精を出して榎木を植えさせ候なり。」 と出ている。しかし同じ逸話が〔本朝世事談五〕という古文書にもあり、これには織田信長が 『余の木を植ゆべし』 と命令したのを 『榎の木を植えよ』 と言ったのを聞き間違えた、となっている。 しかし「静岡方言辞典」では、よのき、エノキ、榎、これは皆同じと出ている。家康や秀忠が遠州にゆかりが多いことを思うと、これは正直に徳川施政者の逸話と思うことにする。 一里塚は三街道から次第に他の街道、脇街道にも設置されるようになり、諸藩も塚の整備、保全に力をつくした。 一里塚の設置の目的ははじめは不明確だったらしい。しかし駄馬賃をこのとき、街道一里につき十二文、一駄は四十貫で乗懸け馬一頭に人がひとりと、荷物廿貫までという規程を定めた。また暑い夏には木陰を休憩所として利用し、茶店などもあった例が多い。 くたびれた奴を見守る一里塚 柳多留 明治以降になると、鉄道網の発展や道路の拡張などで次第に塚も失われていった。それはいまも続いている。 いま東海地方で残っているものは、尾張富田(愛知尾西市)、三河来迎寺(愛知知立市)などがある。 なかでも三島錦田(静岡県三島市)は両側に見事な塚が残っている。 野村一里塚の椋はこれらのどの樹よりも見事な大木を誇っている。 門松や冥途の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし 小西来山 小西来山は元禄年間の談林派俳人。この句は一休禅師のものと言われているが実際は来山の句である。正月元日に街道を通行しているとき、葬儀の列に出会ったことを詠んだといわれる。 参考文献:〔寛文太田藤右衛門記〕、〔東照宮御実記〕、 〔落穂集〕、〔徳川実記〕、亀山市HP |
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