東海道の昔の話(22) 蝦夷(えぞ)桜 愛知厚顔 元会社員 2003/9/23投稿 |
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関の町は東ノ追分から西ノ追分まで、江戸時代の古い宿場町の面影を色濃く残す。まさにわが国でも有数な文化遺産である。 この関宿は東から往還に入っても西から入ってきても、中心の関地蔵院の建物は必ず真正面に望まれる。それはちょうど〔く〕の字の曲がり角にあるからだ。 古くから東海道を旅する人に愛でられた「関のえぞ桜」。 この桜は地蔵院境内の裏の庭園の奥に現存している。この庭園は伊勢国の七名園にあげられるほど見事なものである。 この築山の頂上に八百年の風雪に耐えて生き続けていると伝えられたが…。 大正のはじめ頃に天然記念物として保護指定されている。 この桜は周囲の照葉樹が繁茂していて、地蔵院の正面からは見ることができない。太田南畝も「改元紀行」では庭の裏側から入って見物している。彼も印象を深くもったらしく、花を一輪とって我慢しようとしたが、住職が一枝くれたので、それをずっと旅先の鈴鹿峠を越えても持参している。 えぞ桜と名庭園をじっくり見ようとすれば、拝観料を出して地蔵院の内部全体を案内してもらい、ついでに御茶の接待を受けられることをすすめたい。 この「えぞ桜」は蝦夷人(アイヌの人)が旅の途中、桜を杖にして土中にさしたところ、これに枝葉が生えてきたのだ…とも。また関宿の中にある小桜屋嘉兵衛という店の庭にある古木だという説。また別の寺院にある桜だとも云う人がいたが、どやらあの有名な藤原定家の和歌にちなんで、名前が一人歩きしたのが正解らしい。 えぞすぎぬこれや鈴鹿の関ならん ふりすてがたき花のかげかな 定家 この歌も庭園の裏側から桜を見て詠じたのだろうと推測されている。 「えぞ桜」の傍らに定家のこの歌碑があるが、名前の由来は記されていない。学者の調査により、これは「ベニヤマザクラ」の一種であり、寒地系のものといわれている。定家の名歌のせいで記念物指定されたこともあろうが、ほんとうに桜としても貴重な種類だから指定されたようである。 大正六年には築山、垣などが整備され保護の手が入った。 昭和のはじめには一本は高さ六メートル、幹の周囲二メートル、もう一本は高さ七メートル、廻り二メートルと記録されていたが、やがて老い朽ちて枯死してしまった。 しかしさいわいにも根元から新芽を出したので、それをうまく育てて現在の立派な木に成長させたという。けれどこれも近年の周囲の環境の変化、地下の水の流れの変化、また桜そのものが本来は短い寿命であることなど、悪い条件が重なっており、いまは枯死寸前の状態になっている。 かって歌に詠まれたような見事な成木は期待できないが、東海道の旅人がロマンと夢を育んだ雰囲気は、充分に汲み取ることができる。 参考文献: 「東海道名所図会」「勢国見聞集」 |
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