東海道の昔の話(23)
     仙の石      愛知厚顔   元会社員  2003/9/25投稿
 
 亀山公園の端から鈴鹿の山々を眺めると、野登山の左に堂々とした峻峰が見える。仙ヶ岳の西峰(左)と東峰(右)

これが亀山市の最高峰、仙ケ岳(961m)である。標高は千bに少し満たないが、山としての威容と魅力は高山の貫禄を充分に備えている。
 仙ケ岳は双耳峰であり西峰が最高峰だが、すぐ東に少し低い東峰がある。この頂上に奇岩の仙の石がある。どうしてこんな山頂に不思議な形の岩があるのか…。はじめてみた人は一様に驚く。
 この岩について野登寺の縁起はつぎの話を伝えている。

 野登山の山頂にある鶏足山野登寺、これは醍醐天皇の勅願で延喜七年(907)に着工し同十年(910)に本堂が完成した。開創は仙朝上人である。以来、上人の熱心な指導と人々の厚い信仰をうけ寺運を隆盛させたが、この仙朝上人が入定されたのがこの岩だといわれている。
 入定というのは座禅を組んで祈祷することや、瀑布への投身、さらに修験者の最高の秘儀である生きながら仏となる、すなはち断食でミイラになることまである。
 仙朝上人の場合は後者だという。

 いつの頃からか、人々はこの岩を「入定石」と呼ぶようになり、また「金の石」だという流言が広がった。
 それはこの岩に金塊が含まれているのが判明したからである。
しかし尊い岩なので、誰もそれを盗ろうとはしなかった。ところが時代が下って戦国乱世になると、近江国の村人たちがこの事実を知った。
 ある日、数十人の村人が山を登り、岩の横脇のほう二尺(約60a)あまりを切り抜き、自分の村に持ち去ろうとした。
とかくするうちに日も暮れてくる。峰を超え谷を渡ってていくが、石の重さがだんだんこたえてくる。人々は交代で運ぶのだが、腰や肩は痛み筋骨はうずき、食欲も減退してふらふらの有様だった。
 11月3日の仙の石
 ようやく村に帰りついたが、あまりの疲労で石などはどうでよいという気持ちになってしまった。村人は石を戸外に放り出したまま、それぞれの我が家に帰って寝込んでしまった。
 その夜のことである。
 村の広場にあった石が突然光を放ったではないか。その光はだんだんと明るく、まるで太陽がまさに昇るような気配である。
そして強い光は近隣の村村にまでも光り輝やかせた。

 びっくりしたのは村人たち。大いに畏れおののき、
  『これは霊力を備えた尊い石に違いない。このまま
   粗末にしたらどんな災いが降りかかるか知れない。
   元に戻したほうがよい』
と、夜が明けるのを待ち早々に石を担いで山にむかった。
ところが昨日あれほど重かった石が、なんとしたことか、今日はじつに軽々と運べるではないか。人々は足どりも軽く仙の石の頂上にたどりつき、切り取った石の塊を元の跡に埋め戻したのである。
 その返された石は厳然としていまも盤石の上にあるという。
一面に紅葉したドウダン
 不思議な形の仙の石に、何らかの尊い力が備わっていると感じるのはごく自然であり、それが開創、仙朝上人と結びつけて伝承が生まれたのも自然の姿と思われる。そして石を盗ったのは伊勢側の村人ではなく、山向こうの近江の人たちのせいにしているのも面白い。
 平成のいま仙の石に登ってみると、もちろん金を含んだ塊など見当たらないが、岩に少し凹みがあるので
  『たぶんこのことだろう』
と自己満足させている。

 秋の十一月はじめ、この岩の付近一帯は、見事なドウダンの紅葉で埋められ、金の塊どころかキラキラ輝く金の絨毯が出現する。
 もちろん入定された上人はいつも伊勢平野を見下ろし、いまも人々の暮らしを見守っておられると信じることにする。  
 仙ケ岳は仙朝上人ゆかりの山だから「仙ケ岳」という名前なのである。

参考文献   「野登寺縁起」

 
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