東海道の昔の話(24)
  関宿の旅人模様  愛知厚顔  元会社員 2003/9/28投稿
   
 関の宿場町は江戸期に最盛期をむかえた。
 この町は東海道五十三次の中でも五本の指にはいる宿場として、参勤交代の殿様、伊勢参りの旅人,江戸と京阪神を行き来する商人、学僧などで物凄く繁盛した。記録では東と西のわずか半里(1,8km)の間に本陣、脇本陣が四軒、旅篭四十二、飲食店が九十九軒もあった。
 いまこの町では熱心に町並み保存が図られている。往還を歩いてみると、電柱やTVアンテナの整理がすすみ、二階の壁面に虫籠窓のある家、ベンガラを塗装した見事な格子、馬をつないだ環金具が残る柱など、いずれも古い宿場町の名残を宿し、非常に貴重な建物群に、いまさらのように驚くのである。

広重の「関本陣早立の図」

 通りの途中に川北本陣、伊藤本陣、西尾脇本陣がある。
歌川広重の描く「関本陣早立の図」は川北本陣がモデルだといわれるが、朝早く出立しようとしている慌しい様子がうかがえる。
浅井了意は「東海道名所図会」の中で
  『馬士(うまかた)の挑み合ふは常にして、静かなる
   を変態とす。かたわらに終日(ひねもす)労する馬は、
   これを聞きながら眠りけるもまたおかし…』
 馬引き人夫たちが大声で言い争っているのはいつものこと、静かなのはかえって変だ。その争いのそばでは馬は悠々と居眠りをしている。騒がしく賑わってている往還の情景がよくわかる。

 この賑わいは享和三年(1803)には、百軒ちかくもの店が増えて軒を連ねた。飯盛女や宿女もだんだんと増え、遊女屋も賑わってくる。
幕府はなんども禁止令を出して、華奢遊戯の類を取り締まったようだが、実際はあまり効果が上がらなかった。

 ”関は千軒、女郎屋は估券、女郎屋なくては関たたん”
                      〔はやり歌〕
 関の宿場は多くの家並みがあり、遊郭は繁盛していて倒産なし、 この遊郭がなかったら関の宿場は成り立たない。
この唄が本当の実態だったのかも知れない。 ウソか本当か、最盛期には客相手の商売女が二千人もいたという。 
 このころを詠まれた狂詩がある。
     関宿   銅脈先生(畠中観斎)
       関に泊まりて招嫖(オジャレ)を買う
       地蔵も及ばず招嫖のよそほひ
       買はんと欲して相談約束成る
       寝るところ布団わずかに一枚
       昨夜の幻妻いま見れば
       目玉飛び出て頬、蟹のごとし     
「おじゃれ」とは遊女のこと、化粧した遊女、夜の薄明かりではまるで関の地蔵様のような美女に見えた。薄い布団一枚で一夜を共にしたあと、朝になってよくよく見ると、目玉が飛び出て頬はまるで蟹のようだ。よくもまあ詠んだものである。

 鈴鹿馬子唄に出てくる関の小万。彼女は仇討ちの列女なのだが、遊女だった別の小万も唄に出てくる。さらに近松門左衛門の浄瑠璃〔丹波与作待夜の小室節〕にも遊女小万が登場する。
      与作思えば照る日も曇る
            関の小万の涙雨
      馬はいんだにお主は見えぬ
            関の小万がとめたやら
 とにかく彼女たちの猛烈な客引きと、商売熱心さには旅人もうんざりしただろう。
   泊まれとて人を導くたはれ女の
      笑みこそ関の地蔵顔なれ      吾吟我集

   関寺の門前見ればいまとても
      わら屋を立てて小町ありけり    石田未徳      

   関守る廓に空音の四つも打ち        柳多留

   小万を寝せて実盛の物がたり        柳多留


 『ほどなく関の地蔵に着く、この宿のならひとて、顔白くこ
  しらへ、まことの地蔵顔したる女どもの錫杖にあらで、
  杓子と云う物を手ごとに打ちふって
   「旅人とまり給へ、とまり給へ、労扶むく
    日の暮れぬ、これより先に里はなし、通すまじ」
  と、声ごえに云ふ。
      梓弓はるばる来ぬる旅人を
          ここにて関の地蔵顔する     』
           「元和元年(1615)東海紀行」より。
もう日暮れが近い。ここから先には泊まるところもないよ…、女たちは道に立ちふさがり、杓子を叩いて強引に客引きをしている。

また夫婦だけで営む小さな宿では、つぎのような情景がくり広げられた。
〔狂歌旅枕〕天和二年(1682)刊行の書物に出ている話。
 『関に泊まり朝出立しようとしたところ、雨が降り出した
  ので宿を出るのを躊躇して
     今日の関せき止め給う石地蔵
        いざ貸したまえ伊勢菅笠を
          馬の刻より雨止ましまま出ん
  馬の刻とは正午のこと、この句を聞くと宿の主人はむっと
  した様子をしたので
     雨止むにそなたが行こう追いやるは
           天と地とほどに近いとぞ思う
  と詠み直したところ、何と思ったのか彼は機嫌を直して作
  り笑いをした。そこでまた一句
     にこにこと笑い給うは所なる
          お地蔵顔とて人も誉めなん    』
 
 この人は結局雨が止むのを待って出立したので、かなり遅くなりつぎの坂下宿でも宿泊することになった。
 『日が暮れて坂ノ下で泊まったところ、主人夫婦が二人で
  接待してくれ、ご馳走や酒の相手をしてくれた。この夫婦
  は共に酒をよく飲んだ。そこで
    酒ふりの同じようなる夫婦おば
         いとこにとこそ人は云うめれ
  と詠んだ。この主人夫婦はまったく酒豪、あまりにもよく飲むので
    坂ひがし北も南も見たけれど
         かか(女房)ほど酒を飲む者はなし
  と云ってやったところ、笑いながら女房が衣を脱ぐ。
    取り外す かかの部屋こそ音高し
       匂えば とと(亭主)は顔わきにする
  夜が明けて出立しようとすると、女房が出てきて
    「夕べのことが恥ずかしい」
  と云うので
    昔よりいまの世までも世話に言う
         出もの腫れものところ嫌わず   』

 じつにゆったりとした旅を楽しんでいる様子がよくわかる。昔の町並みが復活した関の町
いまの時間に追われて急ぐ旅のなんと空しいことだろうか。 
昔の旅が実にうらやましく感じられる。そしてこの旅人の豊かな頓智と詩想は驚くばかりである。 


 参考文献  「狂歌旅枕」「俳諧五十三次」「東海紀行」
       「東海道名所図会」


 
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