東海道の昔の話(25) 「暗夜行路」の亀山 愛知厚顔 元会社員 2003/9/30投稿 |
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志賀直哉の小説「暗夜行路」は近代日本文学の傑作といわれ、大正から昭和のはじめにかけて発表され読者を魅了した。 平成のいまも主人公、時任謙作の魂の軌跡をたどり懐かしむフアンが多く、出版社から何度も発行がくりかえされている。 作品は志賀直哉の自伝的な告白がベースになっているが、出生の秘密にかかわる重要なポイントはフィクションである。 この稿では主人公の時任謙作を志賀直哉の本人と置き換えてみた。文学を志す直哉は実業家の父と意見が合わず、大きな溝が出きてしまい不和となる。そしてときどき情緒不安定な自己を取り戻すため、地方の町をあちこちと一人で生活し文学に没頭する。 京都でようやく心の安定が得られたとき、一人の美しい女性と出会う。一目惚れに近い状態だったが、友人の武者小路実篤の奔走、仲介努力を得て、目出度く婚約にこぎつけた。 そしてそれまでの生活に区切りをつけるべく、伊勢へ旅行に出た。つぎの文は「暗夜行路」に記された亀山の印象である。 * * * * 大正三年(1914)十月。 志賀直裁は内宮、下宮を参拝し、二見ケ浦から鳥羽へゆき一泊して京都に帰ることにした。その帰りに彼は亀山で下り、つぎの列車までの一時間半ばかりを人力車に乗って、ひと通り亀山の町を見て廻った。 亀山は彼の母の郷里だった。これは高台のいたってみすぼらしい町で、町見物はすぐ済み、それから亀山神社の建っている城跡の方へいってみた。 安藤広重の五十三次の画にある大きい石垣斜面の亀山城を想像していた直裁は、その景色でも見ていきたいと思ったが、よく場所が分らなかった。 人力車を亀山神社の鳥居の前に待たせ、いい加減にその辺をぶらついてみた。下の方に古い幽翠な池があり、そのむこうがまた同じぐらいの山になっていた。彼はその池に下り、そして急な山路をその高台へ登っていった。 上は公園(亀山公園)のようになっていて、遊びにきている人は誰もいなかったが、身なりの悪い、しかしどこか品の良い五十がらみの女姓が一人、そこで掃除をしていた。 彼が登っていくと、その女性も掃く手を止めてこちらを見ていた。その穏やかな眼差しが親しい気持ちを彼に起こさせた。そしてちょうど亡き母を同じ年ごろであることが、そして昔の侍の家の人であろうという想像が、彼に何かその女と話してみたいという気を起させた。 『ここは…』 こんなことを云いながら、彼は近寄っていった。 『やはりお城の中ですか?』 『そうでござります。こちらは二ノ丸で、あちらが昔の 御本丸でござります。』 そう云って女性は亀山神社のある森の方を指した。 『昔、ここにいた人で佐本という人を御存知ありませんか?』 『佐本さん。御旧臣ですやろか』 『そうです』 彼はわけもなく赤い顔をしながら 『佐本銀(さもとぎん)というんですが、ちょうど貴女ぐらいの年です』 直哉は当然 「知ってる」 という返事を予期しながら少しせき込んで云った。 『はあー』 とその女性は呑み込めない顔をして首を傾けた。 『お銀さんと言われたお方はよう覚えまへんが、お金さんとそのお妹御で、お慶さんといわれるお方はよう存じとりますが』 『女きょうだいはないのです。……たぶんなかったんだろうと思うんです。もっと他にありませんか、佐本という家は…』 『さあ、どうですやろ?。私どもの覚えているのは御維新から後の事ですよって、ほかの土地へ出られたお方やと存じませんのやが、いま申しました、佐本さんでお訊ねやしたら、大方知れんこともござりますまい』 結局、彼の予期は外れた。 それに彼はそう云う機会もなく、母の幼児のときのことなどまるで知らなかった。母が何時から東京へ出てきたのか、母方の親類にどういう家があるのか、覚えがなかった。 それは彼が父方の祖父を愛し、尊敬していたことも原因になっていた。 女性はこの土地の佐本という家を教えてくれたが、彼は別に行く気もなく、礼をいって別れた。………。 夕日が本丸跡の森を照らしていた。 ヌルデだけがもう紅葉して青い中に美しく目立っていた。 「しかしそれでいいのだ。その方がいいのだ。すべては自分から始まる。俺が先祖だ」 こんなことを思いながら、彼はうるさく折れ曲がる急な山道を、すでに秋らしく澄んだ公園池の方へ、トントンと小刻みに駆け下りていった。 * * * * この作品では大正時代の亀山の町と城跡、神社、池、公園の様子がじつにリアルに書かれている。亀山公園で出会った女性の昔の亀山弁、いまはもうこんな美しい方言は聞かれないだろう。 彼は広重の五十三次の画にある、大きい斜面の亀山城の場所が判らなかったようだが、保永堂版の画は多門櫓ではなく京口門と云う学者もいる。あるいは城だとしても、人力車を東町の方から乗り入れたなら、直接亀山神社まで乗りつけてしまうので、広重が写生した場所が判らないのは当然だろう。 また亀山神社から公園池へ下る坂道は、大正三年の当時は鬱蒼とした杉の大木に囲まれた急坂であり、昼もなお暗い薄気味悪い道だった。そして公園池も水草がびっしりと水面を覆い、ときどき入水する人もいて、幽玄な雰囲気がただよっていた。一旅行者の彼がよくもこの道を歩いたもんだと感心する。 しかも一時間半ほどの列車の待ち合わせの間に、ここに書かれている行動が事実だとしたら、とうてい時間が足りなかったと思う。たぶん予定の汽車に乗り遅れ、もう一つ後の列車に乗ったのではなかろうか…。 志賀直哉の実母の銀は亀山藩士で佐本源吾という人の娘だが、この父がどんな身分だったのか、興味のある地元の人での調査を期待したい。いまも亀山藩の記録など残っていると思う。 この母がどういう縁があったのか、東京で直哉の父、 志賀直温と結婚した。直哉は明治十六年二月廿日に父の勤務先の宮城県石巻市で生れた。直哉はこの母を非常に慕い、明治廿八年八月に母が三十三才で亡くなったとき、その悲しみをのちに「母の死と新しい母」という短編小説にして発表している。 参考文献: 志賀直哉「暗夜行路」 ◎その後の調査で亀山藩士で佐本源吾のことが判明しました。 佐本嘉七(源吾) 役職は大小姓 禄高百十石 かなりの高給取りです。 2004.6.29 厚顔 |
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