東海道の昔の話(30)
 白浪の自白            愛知厚顔 元会社員2003/10/13投稿
 
 天保八年(1837)二月。大阪天満の元与力、大塩平八郎が乱を起こした。徳川政権になってすでに久しい。しかし暴利をむさぼる商人、賄賂と情実無能な幕府政治、私服を肥やす役人などが横行し、米や諸物価が高騰して生活を圧迫したことが人々の不平不満を招いていた。
 持ち前の義侠心から起した大塩の役所焼き討ち、しかし計画は事前に洩れ、結果としては不成功に終った。だが幕府に与えた衝撃ははかりしれなかった。なんといっても彼は幕藩体制を支える側の元役人だったからである。首謀者の大塩が捕縛されたのちも、幕府は全国に指令を発し、残党や同調者の検挙を急いだ。体制を守るため禍根を根こそぎたち切る必要があったのである。

 亀山藩も一斉に領内の探索をおこなった。わけもなく領内をうろつくもの、宿場の宿屋に不審者が泊まっていないか、徹底的に調べていった。その捜索の結果、一軒の旅篭屋で挙動不審な男が発見された。同心役人が
  『名前は?、何の用事で滞在してるのだ。大塩の仲間だろう』
いくら尋問しても
  『………』
 ふてぶてしく睨みつけ、まったく答えようとしない。
年のころは廿七、八だろうか、髪はぼさぼさ衣服は汚れ放題である。武士ではなさそうだが、見るからに凶悪な顔つきである。調べてみると懐から血のりのついた短刀が発見された。これはいよいよ怪しい。
 
 役人は三人がかりで吟味取り調べたが、まったく口を開かない。そこで拷問にかけることにした。青竹の先を割ったものでさんざん背中といわず、脇といわず殴りつける。
あげくの果てに腹の上を蹴り上げる。海老攻めで吊り上げる。
これが繰り返される。気を失うと水をぶっかける。拷問が始まって二日ほど経過したとき、観念したのか男はようやく口を開いた。
  『いまからしゃべってやる。偉い人を呼んでこい』
役人たちは
  「さては大塩の大物の残党に違いない」
と、御徒士目付をを呼んで、じきじきに吟味をおこなった。
すると
  『俺は大坂での焼き討ちには参加したが、ただ皆と一緒に騒いで
  歩いただけだ。親分が大塩か誰かは、そのときは知らなかった。
  騒ぎが合戦になったときには怖くなって逃げてしまった。
  そんなことより、先年に八風峠(三重郡菰野町)で役者ら七人を
  切り殺したのはこの俺様だ。この亀山でも一人殺っている。
  そこらの小悪人とは格が違うんだ。驚いたか、よく聞け、
  俺の名前は白浪だ!』

 男の自白が役人の見込みとは違っていたが、七人殺害の凶賊なら大事件の犯人に違いない。そこでさっそく亀山藩主、石川総和を通じて、八風峠のある菰野藩主の土方雄興に事実の確認を求めた。数日ののち回答があったが、その内容は
 「過ぎる天保三年(1832)一月廿七日、歌舞伎役者四代目、
  中村十蔵と従者の一行が、近江国杠葉尾村から八風峠を
  越えて伊勢国切畑田光村へ向かう途中、大雪のために
  十蔵と従者、そして駕籠かきの四人が凍死した事実がある。」
というものだった。

 藩の役人はこの事実を白浪にぶっつけ
 『役者たち四人が凍死した事実はあると言ってきた。
  どうしてお前が七人も殺したというんだ。』
 『菰野藩は本当のことを知らない。たしかにあの日は大雪だった。
  俺は吹雪が止んだ翌日に田光(菰野町)から山越えして近江に
  むかったんだ。雪はたっぷり腰ぐらいまであったよ。
  そんな雪の山越えなぞやりたくなかったんだが、なにしろ四日市で
  押し込み強盗を働いてたんで、急いで上方へずらかる必要があったんだ』

白浪はペラペラとしゃべり続けた。
  『雪をかきわけ這うようにして峠までやってきたところ、
   雪の中にあっち   に一人こっちに一人と倒れていた。
   俺はかかわりたくなかったんだが、頭らしい男が
   うっすらと目を明け、”どうか助けてくれ”と云うんだ。
   そして懐から銭入れをとり出し、
   ”これで頼む”それがずっしりと重いこと、重いこと』
  『そこで俺は考えた。天下の大悪人の俺が人助けなんか
   面白くもなんともねえ。こいつらもどうせ助からない。
   俺もどうせ短い命だ。
   このあと残された日を太く楽しく生きれば結構じゃないか』
  『よし助けてやる。俺はそう云って財布を奪いとり、
   ”天国へでも地獄でもいきな”
   と短刀で咽喉を突いて楽にしてやったのさ。
   ウソだと思うなら傷の有無を調べてみな』
 ふてぶてしい態度である。

 役人はとまどってしまった。調べの結果、ごく最近、白浪が亀山三本松で一件の殺人、四日市で二件の押し込み強盗を働いたことは間違い無く事実だと判明した。これだけでも極刑に値する重罪である。
 しかし八風峠での中村十蔵一行の七人殺害はどうも裏付けがとれない。そこで藩は菰野藩へ役人を派遣し、この事件を調べた菰野の役人から直接情報を得ようとした。その結果つぎのくわしい事実が判明したのである。
 
 八風峠の遭難者は当時飛ぶ鳥を落す勢い、実力人気とも最高の歌舞伎役者四代目中村十蔵だった。彼は初め二代目片岡松助、三代目坂東又十郎と名乗っていた。文化十年(1813)江戸の森田座で忠臣蔵などを演じて大当たりをとった。
文政二年(1819)に四代目中村十蔵を襲名、のち京大阪でも活躍の場を広げた。天保三年(1832)正月、大阪の竹田座で巌流島の主役を演じて連日の大入り、その評判はつぎの公演地、尾張名古屋にも伝わってきた。

 大阪公演が終了すると、二月から名古屋大須の清寿院境内での小屋懸け長期興行である。名古屋の興行元からは、すでに「まねき」を高々と揚げ、準備も万端整ったことを伝えてきた。
それを聞いた十蔵と他の主な役者十五人、それに従者たちは旅の日程に充分なゆとりをとって出発した。
 ところが大阪を出ると間もなく、一行に得体の知れない男がつきまとい、金をせびられたり、いやがらせをされるようになった。このまま東海道を下り鈴鹿峠を越えていくと、この先なにをされるかわからない。そこで皆で相談した結果、一行を二手に分け、中村十蔵とその従者を近江の八日市から永源寺、そして八風街道に向かわせた。その他の俳優は東海道の本街道を下っていった。

 すでに正月も下旬、もっとも寒さの厳しい季節。この年は近来にない大雪で毎日のように雪が降った。近江湖東の田畑や野は白一色だった。十蔵たちは永源寺から山間に入り、山麓の杠葉尾村(ユズリホムラ)で駕籠と人夫をやとい峠越えをはかった。
しかし最後の人家をすぎ山にさしかかると、雪はますます深く寒さはますます厳しくなった。
 とうとう峠のあたりで真っ暗になってしまった。
みなの疲労も極限に達し、まず駕籠かき人夫が意識もうろうとなって倒れてしまう。彼らは立ち木はもちろん燃えるものは手あたり次第に燃やした。最後は駕籠も壊して燃やした。
 夜が明けても吹雪はおさまらず、寒さと飢えと疲労で数日の間、八風峠のあたりをさ迷ったのだろう。
 まず三人が凍死してしまった。
捜索の人たちが、ようやく雪の穴の中で瀕死の十蔵を発見したのは、山越えをはかった日から四日目の朝であった。
 十蔵は虫の息でつぎの辞世を詠んだ。

     御ひいきを捨てて旅立つ死出の山

それは天保三年一月廿七日、五年前の出来事だった。

  『白浪がなにを云っているのか知りませんが、これが
   菰野藩で調べた中村十蔵の遭難事件の一切です。
   また遭難者は四人です。七人なんてとんでもない。
   それに刀傷なぞまったくありません。まさしく凍え
   死にそのものでしたよ。』
 検視報告も凍死であり、まったく疑う余地はなかった。

 ここまで証拠が明白ならば白浪の自白は信用できない。
けれど亀山での殺し一件と四日市での押し込み強盗は事実であり、これだけでも間違いなく極刑である。大塩平八郎の乱に加わっていたことは、さして問題にならないと思われた。
 役人はどうして白浪があえて拷問を受け、ウソの自白をしたのか理解できないでいた。そして懸命に頭をひねって考えた末、ひとつの推測ができあがった。
  「この白浪はおそらくもっと沢山の犯罪を犯して
   いるのだろう。だが七人もの殺害はやっていない
   と思われる。彼の云うとおりなら、短刀で止めを
   刺したのは十蔵だけのようでもある。しかしどうせ
   獄門が免れないのなら大泥棒の石川五右衛門のように
   なり、彼なりに格好をつけて死にたいと思ったではな
   いか…。そのために先年ふっと耳にした八風峠の遭難
   を、自分が殺ったとデッちあげたのだろう。」

そして役人は上司と相談のうえ、八風峠の一件を加えて白浪の吟味調書に記入した。
  「この男は伊勢国八風峠で七人を殺害し、亀山でも一
   名を殺害、ほか四日市で強盗や火付けを二件も行っている。
   また大塩平八郎の一味であり首謀者の一人である」
と書き入れたのだった。
  『どうやら白浪も死ぬ覚悟はできているみたいだ。
   そんならいっそのこと、大塩の一味は民衆の味方だと
   の噂評を、実は凶賊の集団だった、としたほうが世間
   への説明にも都合がよいのではないか。その方が白浪
   が望んでいることにもなるし…』
 
 そんな思惑があったのか無かったのか、間もなく白浪は大阪へ護送されていった。その後の取り調べ裁判の結果はわかっていない。ちなみに白浪とは盗賊という意味も含まれている。
 彼の本当の名前、年齢、生国などくわしい記録もない。八風峠


参考文献:高力種信「見世物雑誌」
小田切春江「名陽見聞図会」
     細野要斎「諸家雑談」


 
  
 
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