東海道の昔の話(32) 鈴鹿権現、片山神社 愛知厚顔 元会社員2003/10/19投稿 |
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坂下を過ぎると旧東海道はいったん国道一号線の車線に沿う。 歩いて峠にむかうと大形車の騒音で耳痛がひどい、これを避けるように右の山腹に設けられた歩道を歩く。 やがて元の街道に下ると片山神社の石碑の前にでる。これに従って右のゆるい坂道を登る。これが八丁廿七曲がりといわれる「鈴鹿の険」の始まりである。少しいくと杉木立の中に延喜式内片山神社がある。俗に鈴鹿権現、鈴鹿御前、鈴鹿明神ともいわれる社である。太田南畝も「改元紀行」でこの社を 『左の方に権現の社、高き山の上にたてり、石坂あり、 石坂の右にみそぎ殿あり、左に神楽堂あり…。奉るところ 三座、中央に瀬織津媛命、左右に黄吹戸命、瀬羅津媛命、 相殿は倭媛命ときく、摂社に大山祇命、稲荷愛宕などたた せ給へり』 と書いている。 瀬織津媛命などの三神は、かっては鈴鹿峠の北に連なる三ツ子山にあったといわれるが、なんども山火事にあったので、永仁年間(1295)にいまの地に遷座されたという。のち倭媛命も合祀され、いちだんと格式が整えられた。ほか「関秘録」という書では 『鈴鹿の社は古事記にも、大山津見の神の姫、名は 阿多都姫と云う。いまの鈴鹿姫なりと云々。』 この御神は、さきの稿でも紹介した壬申ノ乱では、大海人皇子を強力にバックアップした。また強い神の御力で旅人や村人をずっと守り続けてこられたのである。 明和(1768)のころ、坂ノ下に古町甚三郎という人が住んでいた。 ある春の夜のこと、彼の家から出火した。はじめは一人で火を消そうとしたが、いっこうに火の勢いがおさまらない。 おどろいた彼はあわてふためき、外に出て大声で 『火事だ火事だあ!』 と助けを求めた。そしてかけつけた近所の人と一緒になって火を消しはじめた。人々が一所懸命に手桶の水を屋根まで運んで火にかける。しかしなかなか消えそうもないどころか、ますます風にあおられ勢いが増す。あきらめかけたそのとき 『あれはなんだ!』 誰かが叫んだ。はっとして指さる山の方に目を向けると、いままさに鈴鹿峠の坂道を一人の白衣の人が飛脚馬に乗って走っていくのがはっきりと見えた。するとそのとき 「シュー!」 水かけをあきらめた火が一瞬のうちに消えてしまったではないか…。 人々は驚いて放心したようになってしまった。 ところが坂下宿の三丁の人たちはまったく火事騒ぎを知らなかった。 翌日、甚三郎が宿場に鎮火のお礼に廻ってきて、はじめて火事を知ったわけである。 『これは不思議だ。これは鈴鹿御前の神様が白衣に姿を 変えて火を消したのだろう』 と、人々は噂しあったそうである。 いま甚三郎の家は断絶しているが、それからは坂下宿に火事は発生しないといわれる。この宿場はむかしから業病、火災、落雷がなく、火を嫌うことは伊勢神宮や山城の加茂神社と同じである。 朝鮮通信史や長崎のオランダ人が通過したときも止宿を許さない。 外国人が通るときは宿でもタバコの火を貸さなかったそうである。 享和三年(1803)九月の末、この鈴鹿権現の社の少し上のほうの坂道で、伊勢国の男が近江国の穴村へ灸の治療にいこうと、四人ずれでここを通過したことがある。そのときなかの一人が突然坂の石段を踏みはずした。 『アッ!』 その男は頭を少し割ってひどい出血をして気を失った。 連れの男たちは驚いた。 『これではとても峠越えは無理だ。坂下へ引き返し医者 に見せよう』 そこで通りかかった駕籠に怪我人を乗せ、連れの三人が付き添って坂を下りた。坂下の医者にみせ手当をしてもらったところ怪我人は気がついた。そして落ちたときの様子を話した。それによると 『坂を登っているとき、むこうから子供が一人やって きて、石段を飛んでいったので、自分もそれを真似 したところ、そのままドスンと落ちてしまった。そして 記憶を失ってしまい、気がついたらこの医者だった』 『そんな子供なんか絶対みなかったぜ、不思議なことが あるもんだ』 連れの男たちも首をヒネるばかりだった。結局四人は近江へいくのをあきらめ、伊勢国の自分の村へ立ち戻った。 さて、その怪我した男の母親が言うのには 『今朝がた四時ごろ、誰かが私の布団の上にのしか かったようなので、それをいま人にしゃべっていたところだ』 と、男が怪我をしたのも朝四時ごろなので、まったく不思議なことであった。人々はそれを聞くと 『あの人の父親が先月亡くなったのだが、その霊が鈴鹿権現 の社の鳥居を越えたときなのだろう』 と噂をし合った。またその日は伊勢地方は大雨が降った。とくに鈴鹿峠の周辺は豪雨であった。 『この雨は怪我の出血を雨が洗い流す、権現さまの はからいだったに違いない』 と言い合ったのである。 江戸時代に東海道を旅した人々は、必ずこの神社に詣でている。 参勤交代では西国の諸大名も参拝し多額の奉納をしている。 そのリストには 青山下野守、松平中将、坂倉周防守、藤堂和泉守、 松平上総守、小笠原伊予守、松平阿波守、ほかに毛利氏、 鷹司家、酒井雅楽頭、石川氏、日光御門跡など、 公家、大名たちの名が見えている。 それが平成十五年一月に訪れたとき、愕然としてしまった。 社殿が火災でまるっきり物の見事に灰塵になっているではないか…。 延喜式にもある由緒深いこのお宮がいったいどうして…。 驚きとともに悲しみがこみ上げてきて、しばらくの間その場に立ちすくんでしまった。再建には多額の費用をようすると思われるが、一日も早い建立を願わずにはいられない。 参考文献: 「神名帳考証」 「伊勢見聞私記」 |
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