東海道の昔の話(33) 家康の遁走 愛知厚顔 元会社員 2003/10/22 投稿 |
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天正十年(1582)六月一日夜、明智光秀は突如として本能寺を襲撃した。滞在していた織田信長は翌未明に自刃した。 本能寺の変である。事件が発生したとき、徳川家康は和泉国堺に滞在しており、事件の第一報は高野街道(大阪府四条畷市)を通行中であった。そのとき家康は共侍わずか三十余人という小人数だった。 本能寺の変が発生する前までは、関東から中国地方まで信長の勢力圏だったので、家康も穴山梅雪をともない京大阪、堺の遊山の旅をゆっくり楽しんでいたのだが、一瞬にして周囲が危険きわまりない道中になってしまった。 彼の生命をほしがっていたのは明智光秀だけでない。 戦国時代特有の土民や豪族たちによる「落武者狩り」もある。 この時代の通例として、落武者を襲撃しても罪を問われることはなく、かえって褒賞されることもある。また鎧、兜、太刀、鉄砲などは、いくらでも高い値段で買い手がつくし、自らの武装にも必要なものだった。 こんな危険なところから少しでも早く脱出し、自領の三河に帰らねばならない。彼はすぐに伊賀越えのルートで突破する決意をした。そして六月二日、堺を出発したのち山城、伊賀、伊勢をとおり、伊勢湾を舟で横断して四日の深夜に三河に上陸したのである。 そのことを宣教師フロイスの報告でも 『信長の凶報を堺で聞くと、三河の主家康様と穴山殿 は、直ちに彼らの城に向かったが、通路はすでに敵方 の兵に占領されており、家康様は兵士および金子の 準備を充分にとってあるいは脅し、あるいは物を与え て、なんとか通過した』 と簡潔に記している。 この家康脱出のルートについては、当時の日記古文書類でも、詳しいルートの記録が残されてなく、はっきりしない。その中から比較的信用に足りるものを繋ぎ合わせると、大体つぎのルートのようである。 六月二日 堺(和泉)-平野(和泉)-郷之口(山城、泊) 三日 郷之口-朝宮(近江)-小川(近江、泊) 四日 小川-丸柱(伊賀)-柘植-加太(伊勢)− 関(伊勢)-亀山-石薬師-長太浦-知多-三河 四面まさに危険な地帯を二泊三日で通行したことになる。 しかし穴山梅雪は途中の草内の渡し場(京都府京田辺市)で殺されたし、この渡し場の近くには敵と通じている南山城があった。 また北伊賀もけっして油断ができない土地である。近江の小川から笠置山地の御斎峠(オトギトウゲ)を越えても、安心することができずかなり迂回しながら柘植にたどりついている。このとき伊賀の忍者の頭目、服部半蔵が協力したのは有名。彼の名は江戸城の半蔵門に残されている。 彼らはやっと加太越えをして関宿についた。 伊勢の地は織田信長の縁が深い土地柄であり、やっと安心できたのである。そして休息らしい休息ができたのが、関宿の瑞光寺であった。この寺は永録三年(1560)に関盛信が菩提寺として建立した名刹である。このとき家康が食べた柿が非常に美味しかったと喜ばれた。 そしてこの脱出のとき食べた柿の種を育てたのが、いま瑞光寺にある権現柿だ…、とずっと教えられ説明されてきたが、最近はどうも違う説明になったようだ。 権現柿のそばにある説明版によれば、この脱出のときではなく、同じころの天正年間に家康が別の用で上洛したとき、この寺に立ち寄った。それはこの寺の和尚が三河宝飯郡小坂井出身の幼馴染であり、庭先で柿を食べたところから、後世この「権現柿」の名で呼ばれるようになったとある。 権現とは家康のおくり名、東照大権現からきている。 彼らの脱出をみて驚くのは、三日目に近江の小川から長太浦(鈴鹿市)まで、十七里(65km)の道のりを一日で通過していることである。彼らがいかに身の危険を察し、急ぎに急ぎこの伊勢の国に到着し、ほっとして安心し関や亀山を通過していったのが想像できる。 参考文献: フロイス「イエスズ会日本通信」「石川忠総富書」 今谷明「歴史の道を歩く」 |
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