東海道の昔の話(35)
 野登山の雨壷    愛知厚顔  元会社員  2003/10/26投稿
   
 第六十代、醍醐天皇の勅願により、仙朝上人が野登山の山頂に野登寺の建設に着工したのが延喜七年(917)。諸国の銘木を集め三年の歳月をかけたすえ、延喜十年(910)の四月七日に堂宇伽藍が完成した。この日、開堂供養がおこなわれ、上人の努力と人々の厚い信仰心に守られ、五穀豊穣、息災を祈る人々が近在から参詣するようになった。

 それから四年たった延喜十四年(914)のときである。
この年の夏はまれにみる大旱魃となった。人々は春のころから渇水に困窮していた。人家の井戸水も涸れ、田畑の苗も枯れてしまった。いつも緑の葉で埋っているはずの鈴鹿の山々も、樹木は褐色の葉っぱとなり、夏をむかえる前には散っていく有様であった。

 村の人々は里の寺や社に精進潔斎して参拝したり、古い格式の寺社に送り火をとりにいって雨乞いを始めたのだが、くる日もくる日も太陽は照りつけ、いっこうに雨の気配がない。
  『こうなれば仙朝上人さまにお願いするしかない』
人々は野登山にかけ上がった。そして上人に
  『どうか雨が降るようにお祈りをしてください』
と懇願した。上人は皆の必死の願いをむげに退けることもできず、
  『では出来るかぎりお願いしてみますが、結果はあくまで
   御本尊の御決めになることですから、それは承知して
おいてください』
そう云うと本尊にむかって、一心に看経念誦をされたのである。

 やがてそれが十七日目の暁を迎えるころ、白髪の老翁が現れた。
そして驚く上人にむかい
  『この堂の東北に一個の壷を置く。汝はその中の水を汲み
   取って周りに撒きなさい』
と云って、たちまち姿が消えてしまった。上人は
  『これそこ御本尊千手観音様のお告げに違いない』
と思い、その場所にいってみると、はたして水が八分目ほど入った壷が置かれていた
 上人はさっそくその水を汲みとって、あたりに撒いてみると、晴天がにわかにかき曇り、忽然として深い霧が山にかかり、雷鳴が轟き、大雨が盆水に溢れるように降ってきたではないか。
  「これはまさに観音様の深い御慈悲であろう」
上人はその場所に穴を掘って壷を埋め、蓋をかけて石の重しを置いた。
  『これこそ天の賜物なり』
とつぶやき、この壷を「雨壷」と名付けられたのである。「雨壷」

 それからあとも旱魃の年に雨を祈るたびに、このときの仙朝さまの例にならい、歴代の御上人にお願いするようになった。
人々はその恵みを感謝し、いまもこの壷を「雨壷さま」と敬称で呼親しみをこめて呼んでいる。壷の大きさは囲い三尺(1m)ばかりあり、延喜十四年のこの年より雨を祈って雨が降らなかったことはと伝承は伝えている。また壷の水は減ることも増えることもなく、常に八分目を保っている。
 このの話は「野登寺縁起」で伝えられたものである。
 平成のいま「雨壷さま」は本堂の右奥、しっかりした石垣に守られて残されている。壷はないが石積みの直径は一尺(30cm)深さ三尺(1m)ほどの井戸である。残念ながら水は八分目までなく、石積みの隙間からほとんど染み出し、壷には溜まっていない。
 この清水は本堂の裏を廻り、左下の庭を横切って小さな流れを作る。

 この庭には流れの上に小さな数枚の石の橋が渡されている。
この流れは過去と現世との境かも、また極楽世界への三途の川にみたてたのかも知れない。石橋の下を電灯で覗いてみると、かすかに二体の仏像らしき姿が彫られている。「水子供養の石橋」
 学者の研究では、これは何らかの理由で、この世に生まれることのなかった子供、あるいは不幸にも幼くして亡くなった水子の成仏供養を願ってのものとか…。このような石橋は埼玉県秩父の金昌寺とこの野登寺だけしかなく、貴重な民俗文化遺産とのことである。

 このほかにも周辺には夏つめたく、冬あたたかい泉がいつも涌きでており、どれも雨壷のように思われる。
 地元の人がこの水質を三重県衛生保健所で検査してもらったところ、カナダや北欧の清水、名水と言われる水の水準をはるかに越えた水質だったそうである。


参考文献    「野登寺縁起」
 
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