東海道の昔の話(37)
  亀山の烈婦の話 愛知厚顔  元会社員  2003/11/3投稿
   
 私は松浦静山と申します。
以前は長崎平戸の藩主をしておりましたが、いまは楽隠居の身分です。私は市井の出来事や噂話を聞いては、できるだけ克明に記録するのを日課としております。先日も友人の林蕉亭が遊びにきて曰く、知人の画の師匠、竹沙が林宅にやってきて雑談したとき、亀山の義婦の話をしていったそうです。
 林蕉亭はこの話を聞いて感嘆し、さっそく筆記しようとしましたが、竹沙が
  『しばらく待ち給え。間違いであるかも知れない。いま
   一度はなしの内容を聞いて、真実を確認してくるから』
と云うので後日を期していたところ、竹沙がまたやってきて
  『津藩の重臣藤堂多門に確かめたところ、書き止めて
   あったものを見せてくれたのでそれを写してきた。』
といいます。竹沙は画家なのでこういうことは気配りがききます。
林蕉亭はその書いた紙切れを私に見せてくれました。

 それが亀山領内の烈婦の話であります。
 亀山藩の領内、村の名前は忘れました。
そこに橋弥という者が住んでいました。そして乳母が登勢という女、彼女は稀な列女です。橋弥がまだ幼少のとき、両親が病気で亡くなりました。この親はかなりの放蕩者で呑む打つ買うをくりかえし、賭け事が大好き。あげくの果てに博打で大損し、家も家財も巻き上げられてしまったのです。とうとう親戚縁者も見放してしまい、誰もこの一家を助けようとはしません。
 そのときです、この乳母の登勢は自分から
  『どうか橋弥さまが成長するまで、私に養育をさせて
   ください。』
と必死に願い出たのです。村人たちも彼女の情にうたれ、粗末な掘立小屋を作って登勢と橋弥を住まわせました。

 登勢はその小屋で暑い夏も寒い冬も過ごし、必死で橋弥を育てていきました。来る年もくる年も主家の再興の大願を果たせるよう、神社仏閣にや金毘羅さまに跣参しました。
 また自分は髪を結うにもワラで結び、ボロボロの衣を身にまとい、乞食のような身なりで雇われ、人の田畑を耕しては一銭、一厘という僅かな賃金を得る生活でした。
 このように昼といわず夜といわず働き続けた結果。だんだんと田畑を買い戻していったのです。

 何年か経過しました。彼女の苦労が報われるときがきました。
ついに念願の立派な家屋を新築し、牛を買うことに成功したのです。それでも登勢は自分をいっこうにかまわず、髪もワラで結び、衣服も古いままを着て改めようとしません。少しのお金も主家の方へ廻してしまうのでした。
 この橋弥の家に一人の伯母がいました。彼女はこの家が没落したとき、何処ともなく立ち去っていたのですが、家の再興が成ったことを聞くと、いつの間にか立ち戻ってきたのです。

 まったくずるい伯母でした。
普通の人なら絶対に家に入れないのですが、ところがこの乳母の登勢、それを少しもいやがる顔を見せず、以前のように主人としていたわり仕えるのでした。
 この登勢はいまもなお存命であり、津藩の藤堂多門や竹沙の邸宅にも、乞食のような姿で訪問したそうです。
 これを聞いて私、松浦静山も非常に感心し、ここに筆記したものです。 天明七年二月朔日(1787)記す。 


参考文献    松浦静山「甲子夜話三篇5」
 
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