東海道の昔の話(38) 実録、荒神山の血闘1愛知厚顔 2003/11/4投稿 |
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荒神山観音寺は伊勢巡礼二十二番の礼所。俗に紅葉山とも呼ばれる紅葉の名所でもある。いまは鈴鹿市に編入されている。 幕末には亀山藩領、神戸藩領、それに幕府直轄領が複雑に入りくんでいるため、犯罪者が潜伏したり博徒が大賭場を開催したりする絶好の場所だった。 この賭場を殲滅するには神戸、亀山、幕府代官などの相互の協力が必要となり、一藩での単独行動では他の藩領に逃亡するため手が出せなかった。亀山藩でも 『いつかはなんとかしなくては…』 と議論になっていたのだが、そのときを待たずに争闘が勃発してしまった。俗に「荒神山の血闘」と云われる大喧嘩がこれである。 この争闘の詳細な実録談は、明治廿年ごろ位田武左衛門という博徒の老人が語ったものだが、これを当時鎮撫にあたった元亀山藩士が記録したものである。 【荒神山の血闘】 これより昔、下総国から黒田屋勇蔵という一人の侠客が桑名城下にやってきた。綽名を平親王将門と名乗っており、子分は千人を越すとかなり法螺吹きでもある。彼は晩年に安濃屋徳次郎にその跡目を相続させ、地盤を譲って剃髪し、墨衣をまとって何処ともなく立ち去っていった。 安濃徳は黒田屋の地盤を引き継ぐと、信濃松本の浪人、角井門之助そして西国の浪人、福山喜内。さらに上野国生まれの浮浪熊五郎などを身近に集め、勢威を北伊勢および尾張、美濃、三河地方の博徒社会に広げていった。 そのころ河芸郡神戸城下に傳左衛門という侠客がいた。 安政二年(1855)ごろから荒神山観音寺の会式に際し、寺の近くで開帳する賭場の主催となっていたが、彼が死んだのちその子の長吉がこの跡目を相続した。 子分は五十余人だったが腕力の争いで安濃徳にはおよばないが、賭場の収入は圧倒的に多かった。毎年四月八日には御賽銭勘座所という看板を掲げ、大々的に賭博を開帳し、盆割絣銭(手数料)が多いときは金千五百両を越え、少ないときでも数百両にもなった。 この当時、農民町人の財力ある者たちがこぞってこの賭博に加わった。俗歌に 里遠きこうじが山のもみじ葉も 観世大悲の光とぞ見る そのため財力では安濃徳を凌いで諸国の侠客と対等に交際し、博徒社会で名前も売れて羨望されていた。 昔は近くの石薬師如来の縁日に人々が参詣し、ついでに加佐登神社、そして荒神山観音寺、野登寺に廻るのが常とされていたのだが、荒神山の賭場が盛大になってきたため、石薬師に参詣する者がしだいに減少していたのである。 安濃徳はなんとか機会をみて長吉を排斥し、この権益地盤を物にしたいと狙っていたが、なかなかその機会がつかめない。 慶応二年二月(1866)のある日、 安濃徳の子分、熊五郎は朝明郡東富田村の料理屋、三筋屋の「お琴」という娘に一目惚れとなった。 『なんとかして女房にしたい』 けれども彼女はすでに神戸長吉の子分、加納屋利三郎と婚約していた。 熊五郎はこの婚約を最初は知らなかったらしいが、二月廿日になってこの事実を知って大に失望し嫉妬に狂った。 翌日の二月廿一日、 偶然に桑名近郊の賭場で利三郎と熊五郎は顔を合わせた。 腹に嫉妬の怨念があるので些細なことが喧嘩になる。 双方が刀を振り回す争いをおこしてしまった。そのときは仲裁者があって収まったが、この喧嘩は熊五郎が挑んだのは歴然としている。ところが安濃徳は 『これは絶好の機会がやってきた』 と子分の角井門之助と相談し、三十三人の子分を引き連れ、加納屋利三郎の宿を襲撃した。そして止宿していた信州常と下総熊を傷つけ、ほかの連中を追い払った。 安濃徳の一行は余力を駆使して神戸城下に進み、夜になってから長吉の住宅を破壊しようと進入をはかった。 しかし長吉と利三郎は不在であり、そこにいた長吉の母シゲにこっぴどく 『女だけの家に押し込んで、馬鹿野郎!出直してこい!』 と罵倒された。彼ら三十余人はそのまま高宮村の近くの椎茸山に退去し、「おみね茶屋」を根城に長吉の来襲を待つことにした。 そこで安濃徳はじっくりと長吉の人物像を観察分析してみた。 「長吉は父の傳左衛門のような大胆な男ではない、 父母の余勢とその財力のために大勢を統率している だけだ。こちらから積極的に攻めれば勝てるぞ。」 彼はそう分析すると 『このつぎは臆病風は禁物だ。徹底的に攻めまくるぞ!』 と子分たちを鼓舞したのである。この分析は当たっていた。 あとで判明したところによれば、あの大喧嘩の最中に彼はどこかに隠れていたらしい。 神戸長吉と利三郎たちが家に帰り、母から安濃徳たちの暴行を聞くと、翌日、子分三十余人を集めて「おみね茶屋」に向かった。 その途中で敵と遭遇しすぐ争闘になってしまった。 そのときかって加納屋利三郎に雇われていた一人の青年、突然竹林の中から飛び出し 『エイッ!』 といきなり竹槍で熊五郎を刺した。この助力で利三郎は止めを刺した。 加納屋利三郎は元は質屋の生まれだが、素行不良のため博徒と交際したため父から勘当されていた。しかし利三郎はこの青年の父母を救済し、ときどき金銭の援助をしていた。そのため青年は報恩のために力を貸したらしい。 しかし双方が乱闘をしている間に、利三郎は角井門之助に討たれてしまった。門之助は剣と槍に優れ信濃千曲川で父の仇討をしたことがある。けれど素行不良のため追放されていた。だが剣をとれば利三郎の及ぶところではない。あっけなく殺害されてしまった。 やがてこの騒擾が伝わり、亀山藩、神戸藩、代官屋敷などから続々と取り締まり鎮撫の勢力が派遣されてきた。それを知ると博徒たちはちりじりに四散していったのである。 このとき徹底的に博徒を追求し捕縛しておけば、あとの大争闘は起こらなかったのだが、当時の幕府および諸藩の警察力では止むを得なかったのかも知れない。 それから安濃徳は尾張、三河、遠州、甲州、信濃、駿河、伊豆など、諸国の義兄弟や博徒仲間に応援を頼んだ。また伊勢一円の博徒社会に子分を派遣し、 『来月の四月八日に荒神山観音寺境内の賭場を 自分の主催で開帳するので出席されたい。』 と通知し、すでにこの賭場を占有したように吹聴したのである。 このとき安濃徳の賭場に出席を拒絶した親分は、度会郡小俣の武蔵屋周太郎、そして塩浜吉五郎をはじめ松阪の米太郎、稲木の文蔵、新茶屋の桝吉など五人に過ぎなかった。周太郎は安濃徳の兄弟分だが、 『安濃徳の方が理にかなってない』 と局外中立を宣言した。神戸の長吉は 『どうも我々に加担する親分衆が少ないでは…』 と心配になり、南伊勢地方を巡歴して説得したが同情者は増えてこない。 そこで四月朔日、 度会郡神社港から船に乗って三河の吉良の横須賀港に入った。 三河には長吉の兄弟分にあたる御油の玉吉、吉良の仁吉たちがいる。また寺津の間之助も仁吉の親分にあたるし、仁吉はまた駿河清水港の次郎長の客分でもある。当時の博徒はいつもお互いに連絡をとり合っていた。彼らは各地で盛んに活動しているのだが、天下は所難多事であり、幕府や藩はもはや彼らを拘束する力もなかったようである。 大名武家社会政治はすでに末路の有様であった。 吉良の仁吉は長吉の兄弟分であるが、同時に桑名安濃徳の妹を妻にしていた立場だったので、長吉は訪問したとき多くを望まず 『仁吉兄い、せめて局外中立を守ってください。』 と頼んだ。しかし仁吉は 『妻を離縁し、その方の助っ人にいく』 と宣言、子分に命じて筆と硯箱を持ってこさせた。そして硯に茶を煮て墨を溶いた。子分たちはそこではじめて離縁状を見て愕然とした。 そして仁吉は妻に離縁状を持たせて海路桑名に送り返し、自ずから退路を断って決断をしたのであった。 〔続く〕 参考文献 龍渓隠史「位田武左衛門聞き書」 |
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