東海道の昔の話(4) 源氏物語 賢木ノ巻 愛知厚顔 70代 元会社員 2003/7/8投稿 |
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いつのころか…。 光源氏は十七才、その美貌と才気はあらゆる世の女性を虜にしてしまう。ある日、その源氏の耳に噂が聞こえてきた。 「さる大臣の娘の六条御息所が夫に先立たれ、わが子を 連れて実家に戻ったらしい」 世評では彼女は大変に奥ゆかしく、優雅な立ち振る舞いと教養に溢れた未亡人で年は二十四才とのこと。源氏はこれを聞くとさっそく執拗に彼女のもとに通いつめる。来る日も来る日も、断られても嫌われても、ひるむことなく通い、とうとう彼女の心を射止めてしまった。 しかし年上でありかつ深く思いつめる性格が災いする。せっかく愛人関係になったものゝ、源氏の足もだんだん遠のいていく。その頃の源氏は彼女のほかにも夕顔や末摘花、紫ノ上など、つぎつぎめぐるましく女性を求めている時期でもある。 そんなとき一方で葵ノ上との間に女同士の確執が起こる。彼女は生き霊となってさまようようになる。そういう自分に重い罪悪感を抱き、六条御息所はわが心に深い傷を負ってしまった。 いつしか六年の歳月が経過した。 彼女は自分に悩み、源氏への想いを断ち切るために、わが娘が斎王として赴任するのに付き添って、伊勢に下向する決意をしたのだった。 源氏は彼女が遠くに去っていくことを知ると、あらためて未練心がわきあがってくる。 別れの朝、源氏は心の中の未練を迷いながら歌した。 ふりすてて今日は行くとも鈴鹿川 八十瀬の浪に袖は濡れじや 『私を振り捨てて今日は出発して行くのですか? そして鈴鹿川を渡るとき八十瀬のせせらぎで、衣の袖が濡れる ではありませんか。あなたを想う苦しい私の心のうちを察して ください』 と託したのだった。それを読んだ六条御息所は 鈴鹿川八十瀬の波にぬれぬれず 伊勢まで誰か思ひおこせむ 『鈴鹿川の八十瀬の波で私の衣の袖が濡れるかどうか、 そして伊勢に行った後あとまでも、私のことを誰が心配 してくれるというのでしょうか?』 私のことなどすぐ忘れてしまいます。源氏が本心から引き留めたがっていないことを知った決別の歌である。がっくり気落ちした源氏は 行くかたを眺めもやらむこの秋は 逢坂山を霧な隔てそ 『あの人の行く先をせつない思いで眺めることにしよう。 だから今年の秋は、逢坂山のあたりを、霧よ隠さないでおくれ』 と歌でつぶやくのだった。 紫式部の時代、鈴鹿川は八十瀬川とも呼ばれていた。それは日頃この川は砂岩と花崗岩地質のため、川床が浅く複雑に岩や砂で埋まっている。そのため八十瀬と形容されるほど沢山の浅瀬があり、そこは水が白い牙を剥いて流れていた。 それがいったん大雨が降ると、たちまち深い濁流となって何もかも押し流す。そのためこの川には長い間、橋をかけることが出来なかった。 旅人は長い衣の裾や袖をまくってたぐり上げ、水に濡れないように注意しながら、岩から岩へと伝い渡って流れを越えていったのである。 紫式部はこの事実を知っていて、巧みに源氏物語の中に取り入れたものと思われる。 『名におふ八十瀬多くて、見所たぐひなし。所々に三間ばかり の橋を渡せる。皆くひぜは無くて、彼方此方より丸木をささ へて、それをたよりに渡しかけたり。木曾のかけ橋おも影に おしはからる』(文化三年、土屋茅淵「旅の命毛」) 江戸中期になっても鈴鹿川源流の橋は、まだ木挽のひ弱な仮橋ぐらいだったようである。 参考文献 紫式部 「源氏物語、賢木の巻」 |
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